qは、じらすように、
「あなたと私たちがここで今夜会ったのは、偶然じゃありませんか」
「ちがいます」
それだけ日本語で云ってグットネルは伸子たちを、部屋へ訪ねて誘うために来たのだと云った。
「偶然なら、なお私たちはそれをたのしくするべきです、そうでしょう?」
到頭三人で、ヴェラ・ケンペルの住居を訪ねることになった。大通りから伸子によくわからない角をいくつも曲って、入口が見えないほど暗い一つの建物を入った。いくつか階段をのぼって、やっぱり殆ど真暗な一つのドアの呼鈴を押した。
すらりとした、薄色のスウェター姿の婦人が出て来た。それが、ケンペルだった。
狭い玄関の廊下から一つの四角いひろい室にはいった。あんまり明るくない電燈にてらされている。その室の一隅に大きなディヴァンがあった。もう一方の壁をいっぱいにして、フランス風の淡い色調で描かれた百号ぐらいの人物がかかっていた。その下に、膝かけで脚をくるんだ一人の老人が揺り椅子によっていた。伸子たちは所在なさそうに膝かけの上に手をおいているその老人に挨拶をしてそこをとおりぬけ、一つのドアからヴェラの書斎に案内された。
「見て下さい。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の住宅難はこのとおりですよ。私たちは、まるで壁のわれ目に棲んでいるようなもんです」
ほんとに、その室は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てから伸子が目撃した最も細長い部屋の一つだった。左手に、一つ大窓があって、幅は九尺もあろうかと思う部屋の窓よりに左光線になるようにしてヴェラの仕事机がおいてあった。伸子たちが並んで腰かけたディヴァンが入口のドアの左手に当るところに据えられていて、小さい茶テーブルや腰のひくい椅子があり、その部分が応接につかわれていた。一番どんづまりの三分の一が寝室にあてられているらしくて、高い衣裳箪笥が見えた。素子が、
「わたしたちは、いまホテルにいますけれど、そろそろ部屋をさがしたいと思っているんです」
と言った。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で貸室さがしをするのは、職業を見つけるより遙かに難事業です――グットネル、あなたの友情がためされる時が来ましたよ」
よっぽどその馴鹿の毛皮外套が気にいっているらしく、ヴェラの室へもそれを着たまま入って来て、ドアによりかかるようにして立っていたグットネルが、間もなく劇場へゆく時間だからと、出かけて行った。
おもに素子とヴェラとが話した。未来派の詩をかいていたケンペルは、革命後|同伴者《パプツチキ》の文学グループに属し、直接社会問題にふれない動物とか自然とかに題材をとった散文詩のようなものをかいていた。フランス古典では、ロスタンの「シャンタ・クレール」があり、現代ではコレットという婦人作家が、動物に取材して気のきいた作品をかいているというような話がでた。体つきも小柄なヴェラは、行ったことがあるのかないのか、芸術や服装についてはフランス好きで一貫しているらしかった。ヴェラのかいた「動物の生活」の話が出た。
「いかがでした? 面白かったですか」
ヴェラが興味をもってきいた。素子が、あっさりと、
「むずかしいと思いました」
と云った。
「一つ一つの字より、全体の表現が……」
「――あなたは? どう思いました?」
伸子の方をむいて、ヴェラが熱心にきいた。
「わたしのロシア語はあんまり貧弱で、文学作品はまだよめないんです」
「――だって……」
ヴェラ・ケンペルは憂鬱な眼つきでドアの方を見ていたが、やがて、
「わたしたち現代のロシア作家は、すべて、きのう字を覚えたばかりの大衆のためにも、わかるように書かなければならないということになっているんです」
皮肉の味をもって云い出しながら、皮肉より重い日ごろの負担がつい吐露されたようにヴェラは云った。
「そのことは外国人の読者の場合とはちがいましょう」
「どうして?」
「外国人には、生活として生きている言葉の感覚がわからないことがあるんです。――あなたの文章を、むずかしいと感じるのは、わたしたちが外国人だからでしょう……」
「どっちだって同じことです」
ヴェラの室にテリア種の小犬が一匹飼われていた。伸子たちが入って行ったとき壁ぎわのディヴァンの上にまるまっていたその白黒まだらの小犬は、そのままそのディヴァンにかけた伸子の膝の上にのって来て、悧巧な黒い瞳を輝やかしている。伸子は、その犬を寵愛しているらしい女主人の気持を尊重する意味で、膝にのせたまま、ときどきその犬を撫でながら、素子との話をきいていた。
そこへ、ドアのそとから、声をかけて、全くアメリカ好みのスケート用白黒模様のジャケットを着た若い大柄の男が入って来た。ヴェラは、小テーブルのわきへ腰かけたまま、
「わたしの良人です。ニコライ・クランゲル――ソヴ・キノの監督――日本からのお客さまがたよ」
と伸子たちを紹介した。
「こちらは」
と素子をチェホフの翻訳家として、
「そちらは、作家」
と伸子を紹介した。
「お目にかかってうれしいです」
クランゲルは、握手をしない頭だけの挨拶をして、グットネルがこの部屋へ入って来たときしていたように、入口のドアに背をもたせて佇んだ。くすんだ鼠色のズボンのポケットへ片手をつっこんで。――
伸子たちにききわけられない簡単な夫婦らしい言葉のやりとりでヴェラはニコライに、二言三言なにかの様子をきいた。
「そう、それはよかったこと……」
ヴェラは、ちょっと言葉を途切らせたが、
「ねえ、あなたはどう思うこと?」
ほとんど彼女の正面にドアによっかかって立っているニコライを仰ぎみるようにして云った。
「この方々は、わたしの書くものがむずかしいっておっしゃるんです」
じっと、ニコライの顔をみつめて、ヴェラは云っている。伸子は、そのヴェラの、妻として訴え甘えている態度をおもしろく感じた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]というところでは、何だかこんな婦人作家の表情を予期しないような先入観が伸子にあった。
ニコライは、何とも返事をしないでヴェラの顔を見かえしたまま肩をすくめ、片方の眉をつり上げるようにした。その身ぶりを言葉にすれば、何を云ってるんだか、と伸子たちの意見をとりあわない意味であろう。ニコライは、ヴェラの顔を見まもったまま、ゆっくりタバコに火をつけた。伸子たちには、別に話しかけようとしない。ニコライが、ひと吸いふた吸いしたとき、ヴェラが、
「わたし退屈だわ」
と云って、そっとほっそりした胴をのばすような身ごなしををした。伸子は、びっくりした眼つきでヴェラ・ケンペルをみた。ヴェラのその言葉は、伸子たちの対手をしていることが退屈なのか、それとも一般的に生活が退屈だという意味なのか、そこの区別をぼやかした調子で云われた。
ニコライは、ドアによりかかっているすらりと長い片脚に重心をもたせてタバコを吸いながら、映画俳優がよくやる、一方の眉の下からはすに対手を見る眼つきで、
「――曲芸《チルク》でも見にゆけばいい」
と云った。
「……曲芸《チルク》も見あきたし――大体私たちモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]人は曲芸《チルク》をみすぎますよ」
曲芸《チルク》を見すぎる、というヴェラの言葉も、伸子には象徴的にきこえた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に曲芸をやる劇場は現実には一ヵ処しかないのだし。――
伸子は、テリアの小犬を自分の膝からディヴァンの上へおろした。そして素子に日本語で、
「そろそろかえらない?」
と云った。
「そうしよう」
そこで伸子と素子とは、ヴェラ・ケンペルの家から帰ったのであった。帰るみちで、伸子は素子に、
「あの私、退屈だわ、はわたしたちに云ったことなの?」
ときいた。
「さあ……ああいうんだろう」
素子は、案外気にとめずヴェラ・ケンペルの文学的ポーズの一つとうけとっているらしかった。
ときをへだてた今夜、素子と本をよみ終えて、雑談のうちにそのときの情景をまた思いおこすと、伸子たち二人を前におきながらヴェラがニコライに甘えて、じっとニコライの眼を見つめながら、書くものがむずかしいと云うと訴えたことも、退屈だわ、と云ったことも、伸子にいい心持では思い出されなかった。あの雰囲気のなかには、伸子たちにとって自然でなく感じられるものがあった。伸子たちが、どうだったらば、ヴェラ夫妻にあんな雰囲気をつくらせないですんだだろう? この問いは、伸子の心のなかですぐポリニャークに掬い上げられたことと、くっついた。伸子がどうであればポリニャークに、あんなに掬い上げられたりしなかっただろうか。伸子は、ひろげた帳面の上に、鉛筆で麻の葉つなぎだの、わけのわからない円形のつながりだのを、いたずら書きをはじめた。
この前の日本文学の夕べのとき会ったノヴィコフ・プリヴォイの海豹《アザラシ》ひげの生えたおとなしいが強情な角顔が思い浮かんだ。あの晩、プリヴォイ夫妻は伸子のすぐ左隣りに坐っていた。ノヴィコフは伸子に、お花さんという女を知っているか、ときいた。ノヴィコフは日露戦争のとき、日本の捕虜になって九州熊本にいた。そのとき親切にしてくれた日本の娘が、お花さんという名だったのだそうだ。ノヴィコフの家庭では、お花さんという名が、彼の波瀾の多かった半生につながる半ば架空的な名物となっているらしくて、白絹のブラウスをつけた細君もわきから、
「彼は、どうしてももう一度日本へ行って、お花さんに会う決心だそうですよ」
と笑いながら云った。
「わたしは、お花さんによくお礼をいう義務があるんだそうです」
クロンシュタットの海兵が反乱をおこしたとき連座して、一九一七年までイギリスに亡命して暮したプリヴォイ夫妻は英語を話した。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の住宅難で自分のうちに落付いた仕事部屋のないプリヴォイは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]郊外に出来た「創作の家」で、「ツシマ」という長篇をかいているところだった。
石垣のように円をつみ重ねたいたずらがきを濃くなぞりながら、伸子は、あのプリヴォイがたとえ酔ったからと云って、伸子を掬い上げたりするだろうか、と思った。それは想像されないことだった。プリヴォイには、そういう想像がなりたたない人柄が感じられる。けれども、ポリニャークもプリヴォイも同じロシアプロレタリア作家同盟に属している。――
「ねえ、プロレタリア作家って、ほんとうはどういうの?」
伸子に訳してきかせたあとを一人でよみつづけていた素子が、
「――どういうのって……どういう意味なのさ」
本の頁から顔をあげずにタバコの灰を指さきでおとしながらききかえした。
「何ていうか――規定というのかしら――こういうものだという、そのこと」
「そんなことわかりきってるじゃないか」
すこし気をわるくしたような声で素子が答えた。
「労働者階級の立場に立つ作家がプロレタリア作家じゃないか」
「そりゃそうだけれどさ……」
革命後にかきはじめた作家のなかには、プロレタリア作家と云っても、偶然な理由からそのグループに属している人もある、と伸子には思えた。
「ポリニャークなんかもそうじゃない? 革命のとき、偶然金持ちでない階級に生れていて、国内戦の間、ジャガ薯袋を背負って、避難列車であっちこっちして『裸の年』が認められたって……プロレタリア作家って文才の問題じゃないでしょう?」
「だからルナチャルスキーが気をもむわけもあるんだろうさ――前衛の眼をもてって――」
伸子は、ひょっと、自分がもし日本から来た女の労働者だったら――工場かどこかで働くひとであったら、同じ事情のもとでポリニャークはどうしただろうか、と思った。それから、ヴェラ・ケンペルも。やっぱり、気のきかない客だということを、わたし退屈だわ、と云う表現でほのめかしただろうか。
日本の政府はソヴェトへの旅行の自由をすべての人に同じようには与えないから、公然と来られるものはいつも半官半民の特殊な用向の日本人か
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