v画の第一年に、工作機械やトラクターや、或いは、それらを製造するいくつかの工場都市をつくった。けれどもバタや石鹸の不自由は当分つづけなければならない。
 あらゆる食料品を並べてぎっしり列をつくっている露店商人と、その前をぞろぞろ往復していた男女の通行人の姿が消えて、猟人広場《アホートヌイ・リャード》から劇場広場の方角へ、見とおしがきくようになった。赤い広場へ出る街角にも、春までは、買物籠に玉子、バタ、自家製のチーズ、鶏などを入れて立っている女や年とった男が多勢いたものだった。ここで、伸子もたまにはバタを買ったこともあるし、玉子も買った。そんな物売りもいない。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の個人商人は二パーセントに減った。それは事実に近いだろうということがトゥウェルスカヤ通りを歩いてみるだけで、感じられるのだった。
 伸子は、ホテル・パッサージの近くへ行って見た。ホテルへ曲る少し手前に、中央出版所と看板を出したきりで、この間までいつみても、陰気にがらんとしたショウ・ウィンドウにレーニンの写真と人間と猫の内臓模型を並べていたところがある。「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊」がそこへ越して来て、面目一新だった。入口に、少し田舎っぽいけれども堂々とした電気看板が「ヴェチェールナヤ・モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]」と豆電球を並べていて、人の出入りも活気がある。なぜ猫と人間の内臓模型がレーニンの写真の下におかれているのか、いつもわけのわからない気がして見て通っていたショウ・ウィンドウの中に、のこされているのはレーニンの写真だけだった。白塗りの図案化された書棚に、五ヵ年計画に関するパンフレットが陳列されている。その背景として、赤地に白で五ヵ年計画を四年で! と書いたプラカートが張られている。「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊」の編輯局のほかに印刷労働者のクラブも出来ているらしく、入口から左手の奥、棕梠《しゅろ》の鉢植ごしに軽食堂《ブフェート》がある様子だった。
 中央郵便局《グラーブナヤ・ポーチタ》が落成している。中央郵便局と云えば、伸子たちが旅行に出るころまでモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で最も人気をあつめている建造物だった。二年前、伸子と素子とが、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ着いた第一日の朝から、目にしたのはこの建築場の板囲いだった。雪の上についた荷橇の跡、そこに落ちている馬糞。厳冬《マローズ》に雪を凍らしている見張所のキノコ屋根。ホテル・パッサージの入口と建築場の入口とが、ひろくない道をはさんで斜めに向きあっていた。今は、その横通りに五階の宏壮な建物の側面が規則正しく各階の窓ガラスを見せている。トゥウェルスカヤ通りに郵便局としては儀式ばりすぎているぐらい威容のある車よせがあって、内部へはいってみると、広々とした窓口で事務をとっている人々の姿も、滑らかなウラル大理石で張られている床を、こころもちすり足で用を足しているまばらな人群れも、いちように小さくなって見えるほど、白い天井は高く、間接照明にてらされて明るい。窓口の真鍮がパイプ・オルガンのように光っている。どこにも群集の匂いがまだしみていない建物の内部のめずらしさ! モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]において、それを見るめずらしさ。ニスの匂うガラスの大扉を押して出ようとしたとき、力まけした伸子の体がスーとドアごとウラル大理石の床をすべって、あっち側へ出た。つき当りのうす茶色の壁に貼られている。「五日週間《ピャチ・ドネエフカ》。|間断なき週間《ニエペレルィヴナヤ・ネデーリヤ》」
 ソヴェトの人々は、すべての生産と執務とが間断なく能率的にはこばれてゆくために、一日八時間基準の労働日を、五日ごとに区切って、これまで二交代だったところを三交代にした。日曜日と云えば、全市の活動がとまって、開いているのは薬局と食堂、劇場ばかりというヨーロッパの一週間制が廃止された。丁度、伸子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰って来る前、ソヴェト経済年度のかわりめである十月一日から新しいシステムが採用されることになった。パリの外字新聞は、五ヵ年計画第一年目の成果についてソヴェト政府が発表した数字について、異口同音に、うさん[#「うさん」に傍点]くささを公言していた。同じ筆法で、五日週間という「アメリカでさえやっていない方法」を採用するソヴェト政府は、世界のキリスト教徒の習慣に挑戦するものであるし、強制労働が全住民に拡大されることであると非難していた。ソヴェト同盟に五ヵ年計画がはじまってから、失業は急速に減りつつある。一九二九年は、伸子でさえロンドンであのような失業者の大群を目撃した年であったから、ソヴェト同盟だけで、五十万あった失業がなくなりつつあるという事実、その上、賃銀が七一パーセント増大するだろうという事実は資本主義の国の主権者たちの気にいりようがなかった。ソヴェト同盟のことは何につけても宣伝が八分。そうきめて不安と羨望が偏見によってまぎらされていた。
 失業と乞食は、たしかに減った。伸子はこんど帰って来て食堂《ストローヴァヤ》の中をうろついている男女や子供がいなくなったことに気付く。並木道のベンチにあてのない表情で腰かけている男女がなくなった。失業者が吸収されずにいない現実の根拠が、伸子の目にもまざまざと見えているのだった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河岸の大建造物の足場を往復している労働者の姿にも、クズネツキー橋のわきで、赤旗を立てた起重機が鉄のビームをつり上げている轟のかたわらにも、工業生産高は戦前の水準にくらべると三倍以上に拡大されようとしているのだった。
 伸子のデスクの端に、五ヵ年計画に関するパンフレットが一冊一冊とつみかさねられた。大量に出版されるそれらのパンフレットにも出版五ヵ年計画が実現されているわけだった。それらの中に特別伸子の気に入っていて、よくくりひろげて眺める「子供のための五ヵ年計画」という絵本があった。大判の四角い本で、頁をひらくと、革命前のロシアの石油、石炭、鉄などの生産と文化の状態が、当時それらの経営に君臨していた外国資本と、ひどい労働者小舎に住んで働いていたロシア労働者の対照的な姿とを描き出しながら石油櫓の数、石炭の山の大小のダイアグラムで示されている。頁は折りたたみ式になっていた。たたまれた頁を開くとそこから、子供の好奇心をもえたたせるような簡明な線と、美しい色彩で五ヵ年計画が完成したときのソヴェト石油の豊富さ、そこにある労働者住宅と労働宮。子供たちの子供の家と学校が描かれているのだった。ソヴェト石炭の見事な黒い山。炭坑地区の電化がどの位進むかということは、ずらりと並んだ電球の数で、小さい子供にものみこめるように説明してある。バルダイ連丘から源を発して数千キロの間を白ロシアからウクライナへとうねり流れて、増水期には耕地にあふれ牛や子供を溺らしたりしていたドニェプル河の下流に、大水力発電所がつくられようとしていた。ドニェプル大発電所が完成すれば、その電力は、ソヴェトの穀倉であるウクライナ地方の農業機械作製所《セル・マシストローイ》で、これだけのトラクターをつくらせ、ソヴェト・フォードで幾台の自動車を生産させ、粉挽き工場は、古風な風車の翼が風のない空に止っているのを心配しなくてもパンにする小麦粉をこんなにどっさり製粉するようになるだろう。雄大なドニェプルの流域にひらけようとしている生産の諸能力が、子供の生活にぴったりした小麦袋だの耕作機械だの、学校だの、統計図で描かれているのだった。画家はデニカだった。ソヴェトの若い画家の中でもきわだって明快で動的な才能をもっている彼が、これだけ力をこめて五ヵ年計画の絵物語を描いてゆくときには、彼のこころにも新しい希望があったろう。去年の冬のように、ウィンター・スポーツの絵ばかり描いているより、張りあいもあっただろう。
 デニカは、反ソヴェト・カンパニアに反撃するためのポスターにも、効果的な諷刺を描いていた。長大な砲身が、ぬっとソヴェト同盟の赤い地図に向ってのびている。黒光りする砲身の先端に、法冠をかぶった法王がまたがっている。彼は法笏《ほうしゃく》をふって指揮している。その背後にくっついて、あらいざらいの勲章を下げて双眼鏡と地図をもっている軍人。※[#「「卍」を左右反転したもの、348−1]《さかまんじ》のしるしをつけたイタリーとドイツのファシスト。しんがりにはシルクハットをかぶった燕尾服姿の太った男が砲身にまたがっている上体をかがめて足もとにつみあげた金袋に手をかけている。五ヵ年計画を四年で! というスローガンのあるところには、きっとそのポスターも貼られていた。二つのものがひと組みとなって、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のあらゆるところで伸子の目にふれる。それにはそれだけの必然があった。反ソヴェト・カンパニアは、国境の八方から五ヵ年計画が水泡に帰すことを切望していた。五ヵ年計画は不可能事だと喧伝しながら、ソヴェトの社会主義建設を破壊するためには、最高政治指導部のなかにまで、世界反革命の組織がはいりこもうとしているのだから。――ブハーリンの問題はパリにいた伸子を衝撃した。
 七ヵ月という時は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で平たく経過したのではなかった。その時間に、ソヴェトの人々は、自分たちの社会主義社会の本質を決定的に高めるために奮闘した。伸子が二年の間モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で見聞して来たもの、その中に生きて身につけて来た細目の全面が立体的にもち上って、一層組織的に、一層計画的に展開される時にはいった。僅かのうちに伸子に耳新しい新造略語がたくさん出ている。それらのどれもが、五ヵ年計画と生産経済計画《プロフィンプラン》に関連していた。伸子が初めて経験するばかりでなく、おそらくソヴェトの人にとって初めての経験であるに違いない数字に対するつよい感受性が、一般感情のうちにあらわれていた。数字はケイ紙の間にかきつけられてだけいるものでなくなった。数字はエネルギーの生きている目盛りであり、そこに人々は自身の努力の集積を見守っていた。ある数字は、はっきりしたよろこびでよまれた。ある種の数字に対してはきびしい批判がよびおこされた。そして、ソヴェトに暮しているかぎり、どんな人でもそれらのあつい数字[#「あつい数字」に傍点]からのがれることは不可能なのだった。

        三

 ソヴェトのそとで暮した七ヵ月は、伸子を成長させた。ロンドン。パリ。ベルリン。ワルシャワ。そこにあった生活とモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の生活との対照は、あんまり具体的であった。さまざまな粗野と、機械的なところがあるにしろ、総体として一つの社会の人間がよりましな条件で生きる可能は、どちらにあるか――資本主義と社会主義と――それは最も下積みの生活をよぎなくされている多くの人々のこころに、希望をもたらすのは、どちらであるか、ということだった。それについての伸子の理解は深まった。理解から生活の情熱となった。伸子がただ一人の若い女にすぎないのは何といいことだろう。ロンドンやパリで暮している人々は気がねなく彼女の前にソヴェト社会についての態度を示し、資本主義列国の外交政策の本質を教えるように話してきかせたことは、何とよかったろう。伸子はパリやロンドンにいるうちに、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にあるものの価値をよりたしかに自身の内容にしたのだった。
 そのような成長にかかわらず、伸子は、他の一面でおくれた。一九二九年という特別に歴史的だった十二ヵ月のなかば以上を、ソヴェト同盟の外の世界に暮していたということで。――モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰って二三日たつと、伸子は自分のおくれを痛切に感じはじめた。素子は、そういう伸子を注意ぶかく見守っていた
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