繧ナ樅林の右側の出口が緑の壁のようになって遠ざかった。左側の樅の林の入口が近くなって来る。伸子は、窓に向って立ったままいつの間にかネッカチーフの前で握りあわせていた両手をきつく胸におしあてた。伸子は、ひびきとして感じたのだった、舞台がまわる、と。――その舞台を選択してかえって来ている自分。パリをはなれて来た自分。その自分というものが確信されるのだった。
 ストルプツェの国境駅についたとき、北方の夜の木造建物の中は、赤っぽい電燈にてらされていた。粗末な板張りの国境荷物検査所。白樺板の間仕切りの上に「五日週間《ピャチ・ドニエフカ》」とはり紙されている。「五ヵ年計画を四年で!」とかいた発電所のポスターがある。粗末な机、粗末な床几《しょうぎ》。すべては粗末で無骨だが、荒けずりなその建物に漂っている木の匂いも、そこに働いている女のプラトークで頭をつつんでいる姿も、すべては他のどの国の、どの国境駅にもなかったものだ。ここにロシアがあった。七ヵ月前ここを通ったときには、伸子の知らなかった建設のスローガンが新しく響いているソヴェト同盟の国境駅があるのだった。
 両手にさげて運んで来た手荷物を、体ごと検査所の台の上におろしたとき、伸子は思わず、
「とうとう《ナコニエーツ》!」
と云った。
「|帰って《ダモイ》|来ました《プリィエーハラ》!」
 水にぬれると紫インクのように変化して消えない鉛筆を手にして、偶然伸子が立った荷物置台の前にいた係りの若い金色の髪の男が快活に訊いた。
「どこから来たんです?」
「|パリから《イズ・パリージャ》」
 パリから――? 伸子は旧いヨーロッパから帰って来たところだった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいた間の伸子は知らなかった自分の動揺から、一つの選択から帰って来たところなのだった。

        二

 素子の下宿の部屋が、かわっていた。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]じゅうの並木の若芽がまだ尖がった緑の点々だった頃、伸子が旅立ちの仕度に、灰色アンゴラのカラーを自分で合外套の襟に縫いつけていたのは、ルケアーノフのクワルティーラの裏側の部屋だった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学病院を退院して、伸子は、たった一つの窓の幅だけに細長くつくられているその素子の部屋へ帰って来た。一つきりの窓は建物の内庭に面していた。素子と伸子とが同時にそこで動くということは不可能なほどせまくるしかった。
 同じクワルティーラの中で、こんど素子が移った部屋は、ほんものの一室だった。アストージェンカの広場に向ってたっぷり開いた二つの窓をもち、清潔に磨かれている床に二つの単純なベッド、一つの衣裳箪笥、素子用のデスクと本箱、食事用の小テーブル一つが、おかれている。
 ステーションで、迎えに来ていた素子と抱きあって、伸子が、
「どうしていた?」
ときいたとき、素子は、
「――まあ、かえって御覧」
と云った。
「こんどは、いい部屋だよ、ひろいよ」
 ルケアーノフの上の娘に許婚者ができて、彼女たちだけの室がいるようになった。そこでこれまで二人の娘がいたひろい方へ素子がうつり、ヴェーラがうなぎの寝床[#「うなぎの寝床」に傍点]へはいることになったのだそうだった。
「うちの連中にとっちゃ、一挙両得さ。なにしろこんどは、室代が倍だもの」
 素子はカンガルーの毛皮をつけた新調の外套を着てきていた。めずらしい毛皮の柔かくくすんだ色が、十二月のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の外気の刺戟で活気づけられている素子の顔の小麦肌色と、似合った。
 伸子は、国境駅の白樺板の上にまで進出している「五ヵ年計画《ピャチレートカ》」をすぎてゆく街々の角に発見しようとするようにタクシーの窓から目をはなさないのだった。素子がひろい室に移っている、そのことに自分のいる場所の安定も約束されている。それ以上をもとめないこころもちで、伸子は、アストージェンカの、板囲いをはいって行き、太った住宅管理人が、山羊外套の肩にトランクをかついで運び終るのを待って、ルケアーノフのクワルティーラへのぼって行った。ところどころささくれているようなむき出しのセメント階段のふみ心地。あたためられている建物の内部に、かすかに乾いたセメントのにおいがただよっている。これがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の新しい足ざわりであり匂いだった。
 ルケアーノフのところでは食堂の両開きのドアも台所のドアもしまっていて、食堂の隣りの素子の部屋があいている。何の予想もなしにその入口に立って室内をぐるりと見た伸子は、
「あら」
 信じかねるように、一つの窓の下へ目をとめた。
「わたしの場所?」
 外套を着たまま、大股に右手の窓べりによって行った。広場に面した二つの窓の、左側が素子の勉強場になっていた。デスクの上に、ウラル石の灰皿やよみかけの本、新聞がちらばっている。もう一つの窓との間を仕切って、八分どおり詰った本棚が立てられていて、そのかげに、もう一くみデスクと椅子がおかれているのだった。
 デスクの上には何もなく、がらんとしている。しかし、緑色の平ったい円形のシェードのついたスタンドが、いつからでもつかえるようにして置いてある。
「――すごいわねえ、わたしの場所[#「わたしの場所」に傍点]があるなんて……」
「――ぶこ[#「ぶこ」に傍点]が、ひっかかっていつまでも帰らないもんだから、一ヵ月無駄に払っちまったじゃないか」
 とがめる云いかたのなかに、伸子がもうそこに帰って来ているという安心がひびいた。
「なにを、ぐずついていたのさ」
「なにって――」
 直接素子のその質問には答えないで外套を壁にかけている伸子。見なれた部屋着にくつろいだ伸子。顔を洗って来て、ルケアーノフの細君が用意しておいてくれたジャム入りの|油あげパン《ピロシュキ》をおいしがって、茶をのみはじめている伸子。伸子のそのこだわりのない食慾や、もうどこへ行こうとも思っていない人間の無雑作さで寝台の上にとりちらされているパリ好みのネッカチーフやハンド・バッグなどは、その部屋に自分以外の者が住みはじめた目新しさと同時に、やっと永年なじんで来た生活がそっくりそこに戻った感じを素子に与えているのだった。伸子は、自分の動きを追う素子の一つ一つのまなざしからそれを感じた。そして、伸子自身も、アストージェンカへ帰って来て、もうどこへ行こうとも思っていない自分を感じるのだったが、素子の視線には、何か伸子の意識の陰翳にあるものをとらえようとしているようなところがある。伸子の、何かに向って、配られている詮索がある。
 ひと休みしてからの伸子は荷物の整理にとりかかった。画集のトランクは、ちょくちょくあけて見られるようにドアの左手の壁際へ、いくらもない着換え類は、素子とおもやいに衣裳箪笥にかけた。そして、空になったスーツ・ケースを自分の寝台の下へ押し込んでいると、横がけにかけている椅子の背に両腕をおき、その上へ顎をのっけた姿勢で伸子のすることを見守っていた素子が、
「見なれない鞄があるじゃないか」
 ふりかえった伸子に、茶色の中型鞄を目でさした。それは伸子が荷物をしまいきれなくなって蜂谷良作からかりて来た鞄だった。
「ぶこ[#「ぶこ」に傍点]のもんじゃない」
 伸子は、素子の神経におどろいた。
「蜂谷さんにかりて来たのよ、入れるものがなくなっちゃって」
「――かえさなけりゃならないのか?」
「そんな必要ないでしょう」
 かりた鞄をどうするかというようなことについて、蜂谷も伸子も考えていなかった。もし、かえさなければならないことになっていたとすれば、それはどういう意味をもつものとして素子にうつるのだろう。パリでの生活については自分を素子の前に卑屈にしまいときめて、伸子は帰って来ているのだった。
 だまって伸子は荷物整理をつづけた。しばらくして素子が気をかえたように、半ば自分を説得するように、
「まあいいだろうさ!」
と云った。
「蜂谷君も、せめて鞄ぐらいサーヴィスしたっていいところだろう」
 鞄ぐらい、と目の前にある物についていうのがおかしくて、伸子は笑い出した。
「どうして鞄[#「鞄」に傍点]ぐらいなの?」
「だって――そうじゃないか」
 素子は、すーっと瞳孔を細めた視線を伸子の顔に据えた。眼の中にこの数ヵ月の間、折にふれて燃えた暗い焔がゆれている。伸子は暫く素子の視線を見かえしていた。素子のうらみが伸子にわかるのだった。だけれども、ほんとうには、素子がうらむような何一つないのだ。しずかに素子のそばへ歩いて行った。そして自分の頬っぺたと喉の境のところを素子の鼻さきにすりつけた。
「ね、よくかいでみて――別のにおいがする? 何か、ぶこ[#「ぶこ」に傍点]とちがうにおいがする?」
「――ぶこちゃん」
 トランクをいじっていた両手はうしろにはなして、顔だけさしよせている伸子を、柔かな部屋着の上から素子が抱きしめた。
「――半分だけ帰って来たなんていうのじゃないのよ」
「わかるよ、わかるよ」
 二人はその晩おそくまでおきていた。
 夜がふけるにつれて、パリとモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]とをへだてている距離の絶対感が、真新しい刃で伸子の心を一度ならず掠めた。いまは安心して伸子にまかせきっている素子の、こんなにもかぼそい女の手。ウィーンのホテルで自分をつねったり、ぶったりしたこともあるこの指の細い手。自分が帰って来たのは、やっぱりこの手そのものへではない。その意識があんまりまぎらしにくくて伸子は素子の前に瞼をふせた。

 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]が変りはじめている。その変り工合は、見たものでないと信じられないかもしれない。素子がそう書いてよこしたのは真実だった。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は変りはじめた。伸子たちの住んでいるアストージェンカの角から猟人広場《アホートヌイ・リャード》までゆく道の右側、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河岸に、少くとも七階か八階建てになりそうな巨大な建築工事がはじまっていた。それはソヴェト宮殿だった。中世紀的なクレムリンの不便な建物の中から、落成したらソヴェト政府が移るべき近代建築が着手されはじめていた。
 猟人広場《アホートヌイ・リャード》そのものの光景も一変している。一九二七年の初雪の降りはじめたころモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に着いた伸子と素子とが――とくに伸子が、その広場を中心にトゥウェルスカヤ通り、赤い広場、劇場広場、下宿暮しをするようになってからはアストージェンカと、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の中に小さい行動半径を描いているその猟人広場《アホートヌイ・リャード》の名物であった露店商人の行列が、七ヵ月留守して帰ってみたら、ほとんどなくなっている。そのかわりに、春のころは、協同販売所という看板をかけてあるぎりで、入口の赤錆色の鉄扉がしめられていた店舗が二軒並んで開かれていた。店内は品物不足だった。買物籠を腕にかけ、プラトークで頭をつつんだ女が一つの売場の前にのり出してきいている。
「バタはいつうけとれるんですか」
「一週間あとに」
「どうして? おかしいじゃないの。わたしが一週間前に来たとき、お前さんは一週間あとに、って云ったくせに」
「もう一遍、一週間あとに、なんです」
「いつだってそうなんだ! うちには子供がいるんですよ」
 わきに立って問答をきいていた白髪の肥った婆さんが、古風なモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の口調で云った。
「ごらん、これだからね、おっかさん《マームシュカ》。主婦たちが協同組合のウダールニクをこしらえなけりゃならないってわけなのさ」
 多くの生活を知って、まだまだ老耄していない年よりの大きい眼が、そばにいる伸子をちらりと見た。
「あの人たちには分らないさ。まだ、自分の口ひとつを心配していればすむ年頃だもの、よ」
 ソヴェトの人々は五ヵ年
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