チてみると、都久井先生、座敷でのたうちまわっている。腹がすいてたまらんから、ここへ来たのに、何もくわさんと云って、苦しがっていたんだ」
そこで下へ行って、あの男はすこし病気だから、何でもいい、たべるものがありさえすればいいんだからとたのんで、二階へあがって来て見ると、
「おどろいたね」
床の間にきれいなバラがいけてあった。
「先生その前へ行って、両手でその美しいバラを食っているじゃないか」
そこまできいて、伸子ははっとした。すべてのいきさつは、何とその作家らしいだろう。バラが美しくて、そんなに美しいものなら、命のたしに食べていいものだと思えてバラを両手でたべたところ。同じ作家について同じころにいくつかの話もつたえられたが、都久井俊吉とバラの花のこの物語は、この作家のこころの精髄をしぼり出している。常識の平均は失われていて、しかも美しさを感じる心がそのように切なく発露する都久井らしさに、伸子はうたれたのだった。
この切実な逸話が、話しては美術家だというのに、ただバラをくった、というところから語られているのは何としたことだろう。人々の笑いが伸子に堪えがたかった。笑わない伸子に蜂谷の視線が向いた。伸子はそれを感じる。だが、伸子はこたえない。蜂谷に笑える。――それは彼の生活のことなのだった。
都久井は花柳界のある土地に、一人の情人をもっていたが、日ごろからはにかみやで、親しい友人であるその美術家と一緒でも、決して人前でその情人の手をにぎったり、接吻したりはしない。箱根へ行っての帰りその女と来て、山の手にある都久井の家の近くで、その女のひとが自動車をおりた。
「じゃ、ここで失礼するわ、そう云って女がおりるとね、都久井先生、日ごろになく物も云わないで女の手をぎゅっと握った。何しろ五年の間、ただのいっぺんもそんなことをされたことがないんだから、万感交々さね。涙ぐんでしまった。すると、都久井、いきなりその女のきれいな白い手をかじりはじめたんだ――。はらが空いたんだ」
こんどの話では人々はあまり笑わなかった。それは、愛情の表現だという議論がおこった。
「そう思うのは、常識さ。断然、そうじゃない。彼ははらがすいたんだ」
話してを非難するのでもなく、話題に興じている人々を批評するのでもない。自分として苦しい気もちが、伸子の内に渦まきたった。はらが空いたというひとことに云われている感じ。だが美しいもの、いとしいもの、それを自分の口からたべようとする人の心。この社会に、渇望をもって生きているということに関連して、都久井の話には伸子の心をつかむものがある。晩秋のヴェルダンの日暮、ドゥモン要塞の霜枯れはじめた草むらの中に、落ちている小さな金の輪のように光っていた一つの銃口。その無言の小さな金の口が伸子に訴えた、そのような生の訴えが、常識のつりあいのこわれた芸術家のふるまいのうちにも疼いているように思われて、伸子は苦しいのだった。
伸子は椅子から立ちあがった。そして、二三歩自分のいたあたりを歩いた。蜂谷の視線が、アトリエの対角線のところから、伸子を追った。それを無視して、同じところを伸子は一、二度往復し、アトリエのドアの前で向きなおったとき、伸子は、そこに立ちどまった。そして瞬きをとめた目で、蜂谷を見つめた。長椅子の奥にかけている蜂谷と、ドアのところに立っている伸子との間にはそこに人々の顔がある。タバコの煙とコーヒーの匂いと声がある。蜂谷はあまりじっと伸子から見つめられて工合わるそうに身じろぎした。伸子の眼はそれらを見ている。けれどもほんとに見えてはいない。伸子は耳をすましているのだった。伸子の心で、微かにドラが鳴りだしていた。伸子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ、いよいよ出発するときが来た、そのドラが段々はっきり鳴りはじめているのだった。
第四章
一
七ヵ月前にモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]からのって行ったとき、国境はやっぱりこんな風にして通過されたにちがいなかった。けれども、どうしてだか伸子には、そのときの模様は思い出せない。
いまベルリン発モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]行きの列車はポーランドの国境駅をあとにして、十二月にも緑の濃い樅《もみ》の原始林に沿って、ゆっくり進んでいるところだった。国境駅を出たときから列車の速力はぐっとおちている。車窓に迫って真冬の緑をつらねている樅の樹の梢に白い煙が前方から吹きなびいて来てからみつき、それが消え、太い枝、次に細い枝と現れる。伸子の視線がそれを追っかけられるのろさで列車は進行をつづけているのだった。
伸子は、踵のひくい靴をはいている脚を男の子のようにすこし開いて窓に向って立ち、手をうしろにまわし、ベージ色のスウェターの胸に派手なネッカチーフをたらして、目をはなさず窓外の景色を見ている。伸子は熱心に国境沿線の景色を見ながら、ベルリンへついたとき、あわてて降りて、パリからの列車の中に置き忘れて来てしまった絵の具箱とおもちゃの白い猿のはいったボール箱のことを思い出しているのだった。
ああ、ほんとに眠って、来てしまった! パリを出る最後の十二時間は、伸子をそれほどくたびれさせた。
簡単に考えていた荷づくりが案外ごたついた。親たちがパリを引きあげるときペレールのアパルトマンの食堂のテーブルの上へ、敷布類だのテーブル・クローズ類をのこして行った。伸子の数少い手まわりのどこにもそれらを入れる余地がなくなって、蜂谷良作が下宿へもどって伸子のために中型鞄を一つもって来てかしてくれた。そんなごたつきの合間合間に、蜂谷は、自分ひとりパリにのこされる事情になったことを歎いた。
ベルネの家の二階の、伸子の室の床の上で画集をつめた紺色のトランクに鍵をかけながら、蜂谷は訴えた。
「こんなに、きみを離したくない僕が、誰よりもきみの出発を手つだっているなんて――」
きのう百貨店ルーヴルへ一緒に行って、伸子がそのトランクを買う手つだいをしたのも蜂谷だったし、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]までの切符をととのえたのも蜂谷だった。
「これから、僕はひとりで、パリで、どうして暮していいのか、わからない」
伸子は、一旦平らにして入れた敷布を又とり出して、こんどはくるくるまいて借り鞄のよこへつめこむ手をやすめずにいうのだった。
「だって、蜂谷さんはもう二年もパリで暮したんじゃないの、わたしのいたことの方が偶然だったんです。あなたはちゃんと暮せてよ」
「だから、佐々さんには分っていないんだ、きみがいなかったときはいなかったときだ、まるで、今とはちがう」
「じゃあ、どうすればいいと思うの?」
おこった瞳になって、伸子は蜂谷の、悲しげなしかめ顔を見据えた。
「あなたは、わたしをパリにひきとめようとばかりなさるけれど、いっぺんだって、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ行こうとはおっしゃらなくてよ、知っていらっしゃる? そのこと。――」
窓に向って衣裳箪笥と壁との間に、窮屈にはさまれているデスクの上から伸子はこまごまとした手帳、文房具、手紙の束などをもって来て、女持ちの旅行ケースにつめはじめた。ケースには、パリ、ロンドン間の飛行機でとんだときの赤と白とのしゃれたラベルが貼られている。
「ね、わたしたちは、ぎりぎりまでお互を知りあったのよ、それはそう思えるでしょう? そして、わたしはもうモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰る時だということが、はっきりしたんだわ――惰勢で、お互を妙なところへ引きずりこむなんて――それは、わたし、したくないの」
「そうだ、きみは――そうなんだ」
二人の間に荷づくり仕事のごたごたをおいて、伸子と蜂谷とが床の上にかがんだり、椅子においたトランクの前に立ったりしてそういう会話をとりかわしたのは、夜なかの二時すぎであった。ベルネの家族たちはねしずまり、少くとも寝しずまっているように見え、あけはなしたドアから明るい燈の流れ出しているのは伸子の室だけだった。
伸子と蜂谷は、そうして夜明しした。伸子は意識して、夜なかじゅうくつろぐ空気をつくらなかった。朝早く北停車場から出発するベルリン行列車の車室はうす暗い、そのうすら寒さとうす暗さの裡で、蜂谷良作はしびれるようにきつく、外套の上から伸子の腕をつかんだ。
「佐々さん!――最後なんだから――少くとも僕にとって、これが最後なんだから……」
蜂谷との間にそういう機会をもつようになってはじめて、素直に、自発的に、伸子は蜂谷の顔を両手の間にはさんで接吻した。彼と自分とのために、いい生活の願いをこめて。クラマールの生活で二人が経験したことの中に、蜂谷を軽蔑し、伸子自身を軽蔑すべき何があったろう。二人はそれぞれに、これまで知らなかった男と女とを知り、そのように存在する男である自分、女である自分を見出した。微妙で、はげしく、限界のきまっていない男と女のひきあいの間で、伸子と蜂谷とは、きわどく近づき、またはなれ、舞踊のように自身をためしながら格闘した。その格闘は、ひきわけに終りつつある。格闘のなかには、幾世紀もの間、男と女とが互の上にくりかえして来た征服の意欲とはちがった互格のはりあいがあり、それは何かの新しい意味をもっている。結論として、伸子が、断然モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ向って出発するという形をとって表現されるような。――
「じゃ、ほんとうに、さようなら。いろいろありがとう、よく暮しましょう、ね。きっと、ね」
伸子の言葉を縫って発車のベルが響いた。蜂谷は、うめくような喉声といっしょに伸子をつよく抱擁して背骨がくじけそうにしめつけた。そして、あとを向かず車室を出て行った。
伸子は、眠りはじめた。くたびれきって、同時に云いようのない自身からの解放の感じにつつまれながら。フランスとドイツの国境を伸子は夢中ですぎた。ベルリンの数時間は、伸子が眠りと眠りとの間に目をあいて、たべて、日本語を話して、ファイバーのスーツ・ケースを買った数時間であった。ネオンが夜空に走っていた。更に東へ、東へ。大きい窓をもった国際列車の車室のなかでは座席の隅の外套かけで質素なイギリス製の茶色外套が夜から朝へ、朝から昼へと無言に揺れ、その下で、伸子は眠りつづけて来たのだった。
眠りたりて新鮮になった伸子の感覚の前を、国境の伐採地帯がゆるやかに過ぎた。数十ヤードの幅で、自然にはないくっきりとした規則正しさで樅の原始林がきりひらかれている。彼方に、北の国の地平線がある。遠くに、木をくみたててつくった哨所が見えている。
しばらくの間樅林に沿って走って来た列車は、車室のなかへまで緑っぽい光線がさしこんで来る林のそばで、一時停車した。そこで一分間ほど停っていて、また動き出した。列車の速力は一層おちていて、機関車はあえぎあえぎ、ゆっくり草地にかかっている。まぎらわしいというところの一点もない風景がそこにあった。草地も、それを左右からふちどっている樅林のきりそろえられた直線の出口にも。人気ない、北方の自然のうちに、約束がきめられてあって、どんな信号も人影もないのに、列車が約束にしたがってある地点で停り、改めて速度をきめ、そして一定の地点を通過するとまたそこで停る。その行程、その小停止、小発進は、不思議に伸子の心をゆすった。ヨーロッパで、伸子はいくつもの国境を通過した。あるところで、国境は彼女にとって、そこから、役に立たなくなった数箇の銀貨と、それに代って食堂車の真白いテーブル・クローズのはじに並べられた、別の銀貨の数片としてあらわれた。それらのところにはいつも気ぜわしい人々があった。屋根と屋根との間に、国境があった。
こんなにひろく無人で、樅林と草地と地平線しかない地帯、その地点をこうして列車は、儀式をもってのろのろとすぎつつある。機関車の重苦しいひと喘ぎごとに、旧いヨーロッパはうしろになる。前方から新しい土地、ソヴェト・ロシアがひろがって来る。きりひらかれた草地の
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