B伸子のおくれは、伸子自身でどうなり解決すべき性質のものだということを、無言のうちに示していた。本棚一つのあちら側と伸子のいるこちら側との間に、少くとも1/4半期を意味するでこぼこがある。はっきりと、その差があらわれていること、そこに素子の悪意のない復讐のこころよさがあるようであった。伸子は語学の許すかぎり、新しいソヴェトについての勉強をはじめた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のそういう生活に戻って思いかえすと、ロンドンにあった巨大なうちかちがたい貧富の裂けめと、イースト・サイドに溢れて親から子につづいている歴代の惨めさが、ひとしお伸子の心に迫って来る。伸子は、出歩き、よみ、出歩かない日には、ロンドン印象記をかきはじめた。
 ルケアーノフの下宿では、木曜日の夜が伸子たちの入浴日だった。伸子は、きょうこそ風呂の前に、ほこりっぽい仕事を片づけてしまおうと思って、正餐《アベード》がすむと、素子の本棚の下から、束のままつくねてあった日本からの新聞・雑誌類をひっぱり出した。
 デスクに向っていた素子が、
「そうそう、それをやる前に、ぶこ[#「ぶこ」に傍点]によませるものがあったっけ」
 椅子から動かず、うしろ手で、封のきられている二つの封筒を伸子にわたした。一通は、河野ウメ子からの手紙だった。もう一つの方は、めずらしく浅野蕗子から来ている。蕗子は伸子たちがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で暮すようになってからたまにエハガキをよこすぐらいで、口数のすくない人らしく筆数も多くなかった。伸子は、何となく二つの手紙を見くらべていて、蕗子の手紙からよみはじめた。
 まじめな字が、蕗子の、ちょいとながしめで伸子を見て笑うときの口元のようなふくらみのある文章で語っていた。お二人がパリから下すったエハガキはうれしく拝見いたしました。あれから、いくたびもおたよりをしようとしながら、つい書けませんでした。私のところでは、思いがけないことがおこったのでした。弟が急に亡くなりました。急に――おわかりになりますでしょうか。伸子さんには分って頂けることと思います。
 伸子さんには分って頂ける――弟が急に死んだ。それは保が急に死んだように死んだと解釈するしかない文面だった。蕗子の弟――どうして自殺したのだろう。伸子さんには分って頂けるという、ふくみの中には、その原因がやっぱり保のように思想的なものだということもほのめかされていると思える。伸子は、喉もとへこぶ[#「こぶ」に傍点]があがって来て、声がつまった。
「あなた、蕗子さんに何とか云ってあげた?」
「書きようないじゃないか。二人にあてて来ているのに――ぶこ[#「ぶこ」に傍点]は帰っていないなんて書けるもんか」
「別のことだわ、それとこれと」
 素子は、何とこまかく、伸子への懲罰を用意していたことだろう。伸子は二重におどろきを感じながら蕗子の手紙をよみつづけた。蕗子の弟は洋画の勉強をしていた。姉のひいき目からばかりでなく嘱望されて居りました。彼にも現代の芸術家の苦悩が襲ったのでした。芸術上の理論について。彼は芸術至上主義でいられない自分と、他の理論との間で、墜落いたしました。蕗子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ送られる手紙は必ず、日本のどこかで、誰かの目を通るであろうことをおもんぱかって、ぼんやり語っている。だが、蕗子の弟が画家として、自分をどこに置くかということを考えつめた結果、いわゆるプロレタリア階級のための美術という理論やその作風に納得できなかったために、むしろ死を選んだということは察しられるのだった。蕗子は、書いている。彼は誠実な青年でした。私は彼にたいしていい姉ではありませんでした。あんまり自分のことにかまけていたことが、今になって悔まれます。蕗子のいまもふっくりしているであろう手をとって伸子は、そうよ、そうなのよ、という気持だった。そうかいているとき震えた蕗子の唇が感じられた。去年レーニングラードで保が死んだしらせをうけとったとき、伸子を幾日も普通のこころもちに立ちかえらせなかったのは、同じ思いで蕗子の手紙にたたえられている、亡くなった弟への限りないいとしさと自責だった。
 歴史はこのようにしてすすめられてゆくのでしょう。そう読んだとき、伸子の視線が涙でぼやけた。四月ごろ、彼の友人であった優秀な人々の間に多くの犠牲を生じました。そのことは弟が芸術家として生きるということについて、一層懐疑的にしたのでした。当時私はうかつ[#「うかつ」に傍点]でした。それほどの影響だと思いませんでした。――念のために申し添えますが、この点について私と弟との考えは必しも同じではありません。随分考えましたが私が間違っているとは思えません。こういう細かしいことは、いずれまたお目にかかれます折に。私は一所懸命元気であろうとして居ります。彼の良心を思えば、私は最善の生きかたをしずに居られません。
 ――四月と云えば、日本で多数の共産主義者が検挙された四・一六事件のことであった。伸子はパリでちょっと、そのことをきいた。日本の新聞は、事件から七ヵ月も経った十一月二十日すぎに記事解禁になって、伸子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰って来てから、きのう素子の本棚の下から引き出した新聞でよんだ。
 蕗子の弟は、伸子たちがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てから後、上京して、姉と暮しながら研究所へ通って洋画の勉強をしていた模様だ。蕗子は、伸子を共通な悲しみの先輩として語っている。しかし、蕗子の切なさは、伸子の経験よりも深い独特なものだと考えられた。保は、絶対の真理とか、絶対の善・公平さという存在し得ないものを求めて、敗北した。保は、主観的にはげしく真実を求めながら、現実の生活の中では自分の絶対[#「絶対」に傍点]のとりでに立てこもって歴史の流れに抵抗し、破れたところがある。蕗子の弟である若い画学生の生きかたとその苦悩は、彼女の手紙によれば、保とは全く反対のように思えた。その青年は、プロレタリア芸術の必然を認めた。しかしそこにある理論と芸術作品の実際に納得しきれないものを発見して、その否定面をのりこせない自分を歴史にとって無価値な者として一図に死なしてしまったのだった。
 蕗子の手紙は、計らずも伸子に一つの記憶をよびさました。一九二三年の初夏、進歩的な人道主義作家として知られていた武島裕吉が軽井沢で自殺した事件があった。武島家の所有であった北海道の大農場を農民に解放したりしたその作家が苦しんで、破滅した自身の内と外との複雑な矛盾は、個性的なものでもあったが同時に、そのころの日本を風靡していた社会思想と無産者文学理論の素朴さからのもつれもあった。武島裕吉は、ある婦人との死によって、その錯雑から逃れたのだった。武島裕吉に弟がいくたりかあって、その一人が文学者だった。その文学者である弟を中心として武島裕吉を回想する座談会がもたれた席上、弟である作家が、こんな意味のことを云った。兄貴も、もう一年がんばり通せば、死のうとなんか思わなくなったにちがいないんだ。あの震災を通れば、死のうとなんか思わなくなったにちがいないんだ、と。ある文芸雑誌でその談話を読んだとき、伸子は、いつまでも忘れることの出来ない印象をうけた。弟である作家がそう云ったのは、震災火災であれだけの人死にをみれば、生きていることのよさが身にしみて、自分から命をすてるようなことは考えなかったろうという意味かもしれなかった。この弟である作家は、日常生活もその文学の出発も兄である武島裕吉が西欧のヒューマニズムに立っているのとは対照的で、日本式な花柳放蕩のうちにも仏心の多情を肯定するという人生態度であった。彼は兄の死を敗北として、事件当時から肯定していなかった。震災を通りぬければ死になんぞしないですんだんだ、という言葉を、きわめて異常に利用された天災ののちの空気のなかで、そこに生じたのはただの天災であったように云われるのをきくと、伸子は実に妙な気がした。武島裕吉が死んだ三ヵ月のちにおこった関東地方の大震災では、混乱に乗じて各地に大量の朝鮮人虐殺がおこり、亀戸署では平沢計七のほか九名の労働運動者が官憲によって殺され、屍《しかばね》を荒川放水路に遺棄された。アナーキストの首領であった大杉栄・伊藤野枝夫妻と六歳だかの甥宗一の三人が、憲兵隊で甘粕大尉に扼殺《やくさつ》され、古井戸へ投げこまれたのも、このときだった。震災を機会に政府は永続する残酷な左翼弾圧の方針を確立した。その空気は、左翼について知識も乏しく、何の関係を持たない伸子にさえも、野蛮な権力は、いつ自分の気に入らない者の生命をおびやかすか分らないという危険を感じさせた。弟である作家の言葉は、そういう当時の憤りには無関心に、個人個人の生物的な生の肯定に安住していられるひとのひびきがあった。その人が意識していないところに、日本の多数の人に特有の「なにもいっとき」風の処世態度が感じられた。
 佃と離婚するばかりの頃で、伸子の一日一刻のうちには、生に対して主動的であろうとする欲求がたぎっていた。すべての人が、この弟である作家の人生態度にしたがって、自分としての内面の動機を外界の事情と和解させつつ、そこに臨機のモラルを見出してゆけるなら、生きるということは何と楽だろう。伸子は、もとより自分だって生きる組だ、と思った。けれども、その生きかたは、弟である作家のようにでは、なく。――
 武島裕吉の死に対して、ああ云ったその作家が、蕗子の弟である画学生の死を批評したらば、彼は何というだろう。いまモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の下宿で、伸子は湯加減をみるためにガス湯わかしの匂いがかすかにする浴室へ立って行きながら考え沈むのだった。ふくよかに、おっとりして、赤い小さい唇をしていた蕗子の生のなかにもこうして一つの切実な思いからの死が包括された。伸子が自分の生涯のなかに保の死をうけいれたように。蕗子にとって弟の死は、いつも彼女の前に立つだろう、なぜなら、その青年は自分ののりこせないものから逃避したのではなくて、そこへ身を投げ入れたのであったから。
 石鹸の泡を体じゅうに立てこすりながら伸子は尾を長くひく考えの継続から自由になれなかった。ある立場に自分を据え、その立場によりたっていろいろ議論することに熱中している人たちと、その議論によって考えさせられ、自分をきびしく吟味し、生命の価値さえ自分の責任で決定してゆこうとする正直な、ごまかしのない人々の存在。――伸子は、自分たちは、はたとの関係においてどんな風に生きて来ているかと思ってみずにいられなかった。二人の友人である河野ウメ子は、おそい結婚――どこか偶然めいた不安を感じさせる結婚だが、その結婚をすることに心をきめた、と云ってよこしている。あいてのひとは、哲学者であり、ウメ子の小説をよんで、彼女の文学を成長させてやりたいと云っている人だとのことだった。お二人にお目にかかることもなくなってまる二年ちかくになります。このごろは私も自分ひとりの暮しの中で何となし新しく展開するものをもとめるようになって来て居ります。――
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で暮していた日ごろ、それからまたパリへ行って生活していた日々、伸子はウメ子にときどき便りはかいていた。だけれども、ウメ子に会わなくなってもう二年たったという風に互の友情を感じたことがあったろうか。

        四

 十二月の雪がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に降りはじめた。全市が美しい白と黒の雪景色にかわった。アストージェンカの広場からはじまっている並木道の遠い見とおしの上に、ひとすじの黒いふみつけ道が出来た。
 雪は毎日根気よく降りしきり、人々は惜しげなく雪の白さをよごして活動し、陽気で混雑したモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の冬がはじまった。
 ことしの雪景色は、去年とちがった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のあちらこち
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