D車につみこまれてゆくにちがいなかった。
 西日のさすドゥモン要塞のいらくさ[#「いらくさ」に傍点]の中に光っていた小さいあの金の口は、伸子の瞳に重かった。やけついたこの思いが、「ヴェルダン記念」に予定されている効果に終らせられることを伸子は自分に許せなかった。生命感が伸子の内部にせきあげた。人生は生きるためにあるのだ。レーンの「戦争」は、奥歯をかみしめた戦争への憎悪と、それを男らしい意志で制御した観察によって書かれていた。その実感の幾分かが伸子にわかった。――
 国際学生会館の人々は、帰りも線のちがう汽車で、伸子と蜂谷良作の二人は、五十分ばかりあとから出発することになった。
「佐々さんは大分疲れているんじゃないのかな」
 蜂谷良作が、伸子のいる長椅子の方のテーブルへ移って来た。
「そうでもないわ」
「かえってすこし葡萄酒でものんで見た方がいいんじゃないか」
 伸子は首をふった。
「疲れているんじゃないのよ――ね、蜂谷さん、わたし考えていることがあるの」
「云い給えよ。きみは、きょう、まるで口をきかなかったみたいだ」
「わたしが考えているのはね、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]がああして、うるさいほど帝国主義戦争の罪悪、帝国主義戦争の欺瞞と云っているのは、ほんとだった、ということなの」
「…………」
「わたしが、ときどき、どうしてこんなにくりかえすんだろう、もうわかっているのに、と思ったりしたのは、生意気至極のことだったと、わかったの」
 蜂谷良作は、だまったまま、身じろぎをして灰皿の上でタバコをもみ消した。
「そしてね、もう一つわかったのはね、なぜソヴェトでは今でもレーニン廟へ参る人が絶えないかということ」
 ロンドンの夏の日曜日、セント・ポール寺院の、その一段ごとに失業者が鈴なりになっていた正面大階段を見あげる石だたみの広場のはずれに、第一次大戦で戦歿したロンドン市民の記念塔がたっていた。「祖国のために死せる人々の名誉のために」と鋳つけられた記念塔は、セント・ポールに棲んでいるどっさりの鳩の糞をあびて、いかにもきたなかった。ロンドンの晴れた日曜日の風景の中で鳩の糞にまびれていたその記念塔を伸子は思い出した。生きている人は忙しい。痛切に社会のエゴイズムを感じた、その感じも思い出される。伸子のロンドン風景をつづっているのは利根亮輔の怜悧な黒い二つの眼と気のきいた形の鼻ひげの下で伸子に向ってほほ笑んだ独特の微笑である。もしも彼が、こんやこのヴェルダンでおそろしく深い沈黙の中にカルタをしている数人の人間を見ていたとしても、彼はリッチモンド公園の鹿の遊んでいる草原によこたわって、伸子に云ったようにモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のレーニン廟をああ皮肉に批評することができただろうか。利根亮輔は云った。レーニン廟は未開なロシア民衆の聖物崇拝を、共産主義に利用したものだ、と。民衆はそのことを意識していないであろう。民衆がその程度の知的レベルだから、ロシアではソヴェト政体がなりたっているのだ、と。
 伸子はそのとき、民衆を無知なものとしていう利根亮輔の言葉をその一人としての自分に加えられた侮辱のように感じた。そして彼と云いあらそった――彼をその一人として自分を知的優越者だと認めている人々の、ソヴェトは未開だ、ときめて置こうとする偏見に反抗した。利根には、一生、民衆の歴史の扉を生に向って開いた指導者への感動というようなものは実感されないのかもしれない。――彼はおそらく伸子より幾倍か聰明であるのだろう。しかし彼の聰明さは批評しかしない聰明さのようだ。そこに伸子が感じたいらだたしさがあった。いらだたしさは、現在、タイルばりの床に明るくない光のさしている夜のヴェルダンのカフェーで、レザー張りの長椅子の上にいる伸子の感情のどこかに通じている。一日の戦跡周覧の果てに感じている広汎な根ぶかくゆれる抗議、それがどのようにあらわされるのかわからないためにおこっている内部の圧力の高まり。
 沈黙の裡に時々トランプの投げられる音がしている。
 伸子が不意に、
「わたし、今夜ここへ泊ってみたい」
と云った。蜂谷良作は、急にどこかを小突かれたように目をあげて伸子を見た。
「一つぐらい、あいた部屋あるでしょう?」
 伸子は、今夜の異様に苦しく、反抗にかりたてられるような激情をそのまま、沈黙のヴェルダンに過してみたかった。眠れない夜ならば、その眠れないひと夜というものを、ヴェルダンで経験してみたいのだった。
「――ここへ泊るって――」
 そういう蜂谷の額の上に、ぼんやりした混乱のあらわれているのに伸子の視線がひかれた。
「あなたは、お帰りになって下すっていいのよ、もちろん」
 ながいこと黙っていて、蜂谷良作は決論するように、
「きょうは帰りましょう」
と云った。――きょう[#「きょう」に傍点]は? このヴェルダンへ二度来ることは考えられない。
「帰りましょう」
 一層決論をつよめるように蜂谷はくりかえした。
「――帰った方がいい」
「ベルネのうちのひとたちに対して?」
 その心づかいなら、今夜クラマールへ帰ってから、蜂谷がちょっとベルネの家へまわって伸子が泊ることを知らせてくれたらそれでいいと、伸子は考えているのだった。しかし、蜂谷は、がんこに伸子が一人でヴェルダンにのころうとするのをさえぎった。
「僕には、佐々さんをひとりここへおいて帰るなんて、出来ないことなんだ」
 もうあと十分でパリへ帰る列車が出るというとき、
「さ」
 蜂谷が伸子のハンド・バッグをとりあげてわたした。
「出かけましょう」
 旅行用のいくらか大型のそのハンド・バッグには、マース河岸の土産屋で伸子がベルネの細君のために買った銀の記念スプーンがはいっているのだった。

 朝来たと同じ道を、パリへ向って進んでゆくのだけれども、沿線の風景が濃い闇に包まれている夜ふけの汽車は、いかにもカタリコトリと寂しかった。一つの箱に乗客もまばらで、伸子たちのいる仕切りは、伸子と蜂谷きりだった。坐席にかけている人の背たけ越しにベンチの背板がずっと高くつけられているから、外の景色を見ることの出来ない夜汽車で伸子の視野は古びた茶色の板仕切りにはばまれて何となし家畜運搬車にはいっているような感じがするのだった。
「あら、この汽車! ランプよ」
 車内がひどくうす暗く思えたわけがわかった。丁度伸子たちがかけている後の羽目の高いところにガラスのおおいのついたランプがおかれている。同じ箱のあっちの端にも同じあかりがついているが、その光りでものを読むことは不可能だった。
 ひろい闇の中に小さく電燈をきらめかせているいくつかのステーションをすぎたとき、伸子が、
「すこし寒くなって来たようじゃない?」
と云った。蜂谷が自分の合外套をぬいで、伸子に着せかけようとした。
「それじゃあなたが風邪をひくわ」
「僕はいいんだ」
「ほんとに?」
 蜂谷はうなずいた。
「じゃ、かして」
 その外套を羽織って伸子は窓とうしろの羽目の隅に肩をよせかけるようにして目をつぶった。
「眠るとほんとに風邪をひくから駄目だ」
「眠りゃしないわ」
 背中は少しぞくぞくするようなのに、頭のしん[#「しん」に傍点]はあつくて、それは、一日じゅうオープンの自動車にのって風をつっきって走ったからだ、と伸子は思った。
「気分がわるい?」
「いいえ」
 シャロンのステーションは、この地域でもいく分大きい町らしく、明るい駅頭に乗り降りする人影が黒く動いたが、伸子たちの車室へは入って来る乗客も降りてゆくものもなかった。もしかすると、伸子たちのところからは見えない仕切板のあっち側には、誰ものっていないのかもしれなかった。
「何だか僕もすこし寒くなって来たみたいだ。もっと近くに坐ろうよ」
「この汽車ったら、あんまり、がらあきなんだもの……」
 伸子は、窓ぎわの隅からはなれて、ベンチのまんなかにいる蜂谷のわきにかけ直した。
 夜に響く単調な車輪の音にひきこまれたような沈黙を破って蜂谷がぽつんときいた。
「佐々さん、ほんとに十一月いっぱいでパリをひきあげるつもりなのかな」
「そうよ」
「――ぜひもう一遍、どこか近いところへ行きましょう。ね、こんなに長い汽車にのらないでいいところへ」
「どんなところ?」
「そりゃ、いろいろある」
「だって、わたしたち、どっちもろくにお金をもってないくせに」
 伸子は、笑いだした。
「わたし、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰る旅費だけは、大事にとっておくんだから」
 眉をしかめるような斜かいの見かたで、蜂谷は、彼のかたわらに笑っている伸子を見た。
「僕は、きょうだって、外の連中と来たのは失敗だったと思っていたんだ」
「どうして?」
 ぼんやりしていた伸子の注意がめざまされた。伸子は、はっきりした声の調子にもどった。
「丁度六人で、きっちり、都合がよかったと思うわ」
「そんなことじゃない……佐々さんは、きょうは、いつものきみじゃあなかった」
 たしかに、ヴェルダンの一日、伸子は口数が少なかった。伸子の受けた感銘がそうさせたのだった。
「それは、わたしが感じたことは、言葉にすると、どれもこれもセンチメンタルみたいだったから……」
「ほかの連中がいなけりゃ、佐々さんはもっと自由だったにちがいなかったんだ。僕はそれが残念だというんだ」
 伸子にものをいうひまを与えず、
「僕には、大体わからないんだ。伸子さんともあろうひとが、どうして、そんなにいつもセンチメンタルになることをおそれていなけりゃならないのか」
 蜂谷の云いかたは腹をたてているように、圧しつけられた声だった。
「センチメンタルであるにしたって、それは感情の真実であり得る」
「それはそうね。――でも……感情の真実であっても、情熱の真実とはちがうことだってあるわ。感情と情熱とはちがうんだもの――感情を情熱といっしょくたにするのが、いやなの。――」
「僕にそんな区別はない」
「あら!――変だ」
 云いかけた伸子の腕が並んでかけている蜂谷の手にとらえられた。
「――こんなひとが――もうじき行ってしまう」
 体をしざらせようとして蜂谷の方へ向いた伸子の顔の上に、蜂谷の重い頭が急に落ちかかって来た。息をつめて仰向かげんにすこし開いていた伸子の二つの唇の上に、蜂谷の唇が重なった。そしてきつく圧しつけられたとき、蜂谷の唇は不意で全くうけみでいる伸子の歯にふれた。悲しそうに、ゆっくり蜂谷の唇がどいた。
「ああ。伸子さんは、接吻のしようもしらない!」
 ひき裂かれるような苦痛の感覚と屈辱の感覚が、伸子をさし貫いた。伸子は低くうめいた。蜂谷の頭が伸子の手の間にとらえられた。そして、伸子の顔の上へひき下げられた。

        十四

 まったく不安定なものになった蜂谷良作とのつきあいに伸子は抵抗しないで、自分をただよわせた。
 二人の生活の外見には変化がなかった。ベルネの家の食堂へ蜂谷が来て、そこのテーブルで「資本論」を講義し、つれだって散歩し、市中で映画や芝居を観た夜は、十二時すぎてねしずまったクラマールの通りに男女づれの足音がきこえ、やがて伸子の靴音だけがベルネの門から玄関までの小砂利道に響いて来る。
 そのようにして流れる時間のうちに、川の水が何かにあたって思いがけない時、白い波の小さい、しぶき[#「しぶき」に傍点]をあげて行くように、伸子と蜂谷との間に短いはげしいもつれがおこった。
「だめよ、ね、ほんとにだめ!」
 伸子は蜂谷の顔をさけ、ときには、手で蜂谷の顔を柔かくおしのけながら、自分の顔をそむけたり、暫くの間離れて歩いたりした。蜂谷良作はそういうとき、伸子を名でよんだり姓でよんだりした。
「あんまり無理だ。いっぺんきりなんて――それなら、僕がはじめて接吻したとき、どうして君は、自分からしかえしたんだろう」
 あの夜の瞬間の感情の激発を伸子は蜂谷にどうわからせることができただろう。伸子さんは、接吻のしようもしらない! そのひとことがあれほどひどく伸子をさしつら
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