ハき、そのために伸子は火花になって蜂谷の唇をとらえた。蜂谷に向ってほとんどとびかかったと言えるように動いたせつな、しんから傷けられ怒っていた自分の感情を伸子は忘れることができない。それは女の動物が襲ってゆくときの感情だった。あれが、接吻だと云えるだろうか。
 伸子は、考えこんでいるためにふだんよりちんまりした顔つきで蜂谷を見た。
「あれは、やけど[#「やけど」に傍点]だったんだわ。だからくりかえしはないの」
「や、け、ど? そんなことを云って――」
 二人がそのとき歩いていたクラマールの森と町との間にある畑道の上で、蜂谷は立ちどまった。
「僕はそう思わない。――僕が思わないんじゃなくて、実際にそんなもんじゃない。――佐々さん、何をおそれているんだろう、僕にはわからない」
 蜂谷は伸子の腕をとって歩きはじめた。
「佐々さんは全く自由なんじゃないか」
「そうよ」
 自分の心を見張っているように、伏目になって歩きながら、ゆっくりした二人の歩調にあわせて伸子が答えた。
「それは、わたしは自由だわ……だけれど、わからないことは、やっぱりわからない」
「何がわからなくちゃならないのさ」
「――わたしにはわたしの気持。あなたには、あなたのきもち」
「そんなことは、もうわかりすぎてる。僕は毎日毎日考えつづけたんだ」
「――なんて?」
「佐々さん、どうしてきみはそんなにいつものきみでなくなろうとしているんだろう」
 恋とはちがう衝動、むしろ憎みに近かったとっさのふるまいが自分と蜂谷との間にある――接吻という形にあらわされて――。蜂谷良作に会うことを拒まず、肩を抱かれるようにして田舎道を歩いているけれども、伸子の心のどこかはいつも目を明いていて、これは恋でない、と云っている。ああ、伸子さんは接吻のしようもしらない! そのひとことが、あんなに自分を猛々《たけだけ》しくした。蜂谷に深い傷をつけようとするように唇を圧しつけさせた――そこに伸子のおどろきがある。わからなさがある。ヴェルダンの夜、死の都のうす暗いカフェーで、あのように自分を苦しくしていた抗議の感情、欺瞞にいきどおっていた感情、それらの激情の底まで浸りたいと願っていた感情――ヴェルダンへ泊りたいと云った伸子のこころもちと、それをきいてひそかにあわてた表情になった蜂谷良作の気持との間に、くいちがいがあった。蜂谷良作と伸子の要求はくいちがいのまま、その流れを流れて、瀬におちかかろうとしている。男と女の瀬に――。だけれども、これが恋だろうか。愛でない恋――伸子には、わからない。
 蜂谷良作が、感情の投げ繩を投げることにだけ熱中していて、しきりに繩を投げながらも動こうとしないで立っている自身の位置――彼の生活と思想がたっているところ――に目を向けないでいることも、伸子をわからなくする。しかし、蜂谷の投げ繩は伸子の体すれすれにとどいたし、蜂谷の知らない瞬間に全く伸子の感覚をとらえていることがある。たとえばこんなとき――
 ベルネの食堂のテーブルで、例の煖炉よりの側に蜂谷良作が、ドアよりに伸子がかけておきまりの勉強がはじまっている。蜂谷はもち前のチューブから圧し出す声で伸子にノートさせる。
「先ずロビンソンをその島に出現させよう。ロビンソンは本来質素な男であったとは云え、充足させるべき諸種の欲望を有し、したがって種々な有用労働をしなければならなかった。彼は道具や什器《じゅうき》をつくったり、騾馬《らば》を馴らしたり、漁をしたり、狩をしたりせねばならなかったのである」
 ああ、これが有名なロビンソン物語――伸子は鉛筆を働かせながらそう思った。利根亮輔をロンドンで、大英博物館図書館にかよわせていたロビンソン物語――
「彼の生産的機能は種々異っていたとは云え、いずれも同一なるロビンソンの相異った活動形態にすぎず、換言すれば人間労働の相異った様式にすぎないことは、彼の知るところであった」
 それは当然そうであろう。ノートの手を止めず伸子はうなずく。難破船から時計、帳簿、インク、パンなどを救い出すことのできたロビンソンは、やがて種々な生産物の一定量を得るについて平均的に必要な労働時間を示す表をつけはじめるようになった。ロビンソンは、彼自身の必要のために働く時間を、それぞれの働きの間にわりふらなければならず、
「いずれの機能が彼の全活動の上により大なる範囲をしめ、又いずれがより小なる範囲を占めるかは、所期の利用上の効果を得るにあって、うちかつべき困難の大小にかかるものであった」
 何とおそろしく四角ばった云いまわしだろう!
「ロビンソンと彼自身の手で造り出された富を構成する諸物件との間における一切の関係はこの場合きわめて単純明瞭である」
 伸子の理解の段階にあえて必要でない引用の固有名詞をとばして、蜂谷良作はつづける。
「しかも価値決定の上のあらゆる本質的要素は、この関係の中にふくまれているのである。今、ロビンソンの明るい島から陰暗な中世ヨーロッパに目を転じよう。ここには独立した人間はいないで――」
 伸子はノートから頭をあげた。
「ちょっと――ごめんなさい。ロビンソンはそれでおしまい? いきなり中世ヨーロッパとなるのかしら」
 中断されて、蜂谷は手にもっているテキストへ視線をおとし、伸子を見ずに答える。
「それでいいんだ」
「『金曜日《フライデー》』は出て来ないの?」
 伸子は、こちらを見ようとしない蜂谷の顔を見て訊いている。
「価値の原形を分析しているこの部分は、フライデーの出現からきりはなして扱われているんだ」
 視線をさけ、まじめな表情で答えている蜂谷の顔に向って、突然伸子の感覚がかきたてられた。その唇にひきつけられて。――だが、蜂谷は心づかない。伸子がどんな渦巻にまきこまれかかったか。――伸子はノートの上に瞼をおとし、自分の動悸とともに蜂谷の声を、すこし遠いところからきく。
「いかなる人も農奴と領主、家臣と藩主、俗人と僧侶という風に相倚存――倚《き》存の倚《き》は倚《よ》るという字ね、ニンベンの――相倚存していることが見出される」

 クラマールの朝と夜は冬らしい寒さになって来た。
「|お早う《ボン・ジュール》、マドモアゼル」
と、朝の八時すぎに伸子の室のドアをノックしてはいって来るベルネのお婆さんの手はますます赤く、彼女は煖炉の火種を運んで来た。
 伸子がまだ寝台にいるわきのジュータンの上へ大前かけの膝をついて、彼女は上手に火をおこした。ベルネの家庭では、朝と夜しか煖炉の火をこしらえなかった。ベルネの家の煖炉を見て伸子はパリの屋根屋根に林立している煙突のどれもが細いわけをのみこんだ。パリの人々は、豆炭を煖炉につかっているのだった。豆炭の熱は、カッときつく顔ばかりのぼせるようで、こころもちがわるかった。煖炉の豆炭がすっかりおこるまで、皮膚をさすような匂いがなくなるまで、伸子は洗面所の窓ぎわで新聞を見ていることがある。
 アメリカの恐慌は、十一月にはいり、月の半ばに進んでも、たしかな安定は見出していなかった。これまでウォール街で働かせられていたヨーロッパの金が、大量に逆流して、ヨーロッパへ戻って来つつあった。ヨーロッパでアメリカの資本輸出とはりあうことのできるのはイギリスとフランスだけであることが明瞭だった。ベルネの一家は恐慌の打撃にたえたフランスの手堅さに満足して、食卓で息子のジャックをはげましながら洗濯工場の燃料泥棒をつかまえなければならないことについて相談している。
 伸子の生活は、ベルネのおばあさんやアルベール夫婦にとって興味をひく特別の何もないようだった。ヴェルダンから伸子がおみやげに買ってかえった記念スプーンを、
「――銀ですよ!」
 おばあさんが目顔でうなずいて、
「|御親切にね《トレ・ジャンティ》」
とあらためて伸子に礼を云いながら、娘であるベルネの細君にわたし、細君はそれをベルネの主人にまわして一同が見たほかには。
 だがそんなベルネの一家のなかで、十六歳のフランシーヌのそぶりは、伸子に何かを感じさせた。
 伸子はある午後、クラマールに住んでいる画家の柴垣とモンパルナスの美術書籍の店と、いくつかの画廊を見に行く約束をしていた。その店にマチスのデッサン集があった。そのデッサン集を伸子は見飽かなかった。マチス自筆の署名いりで、番号のはいった限定版であった。パリを出発する準備にいくらかずつ画集をあつめていた伸子は、他の三四冊あきらめてもそのデッサン集がほしくて、柴垣にも見てもらいたかった。
 約束の午後、どうしたわけか柴垣は誘いに来なかった。待ちぼけになった伸子は、日ぐれがたモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ出す手紙をポストしに町へ行って、思いがけず郵便局のわきで柴垣に出会った。
「あら」
 柴垣と伸子とは互に目を大きくして眺めあった。
「きょう、御都合がわるかったの?」
「いいや」
 いぶかしそうに、そしてしらべるように柴垣は伸子を上下に見た。
「あなた午前中から留守だったんじゃなかったんですか」
「いいえ」
「うちにいたんですか?」
「いたわ。あなたがいらっしゃらないから、これを書いたわ」
 素子あての厚い角封筒をふってみせた。
「ふーん」
 考える目つきで伸子を見つめながら、柴垣は片腕を大きく肩からふって指をはじき鳴らした。
「いっぱい、くったかな」
 約束の時間にベルネの玄関へ行ったら出て来たのはフランシーヌで、伸子はひる前から出かけていると告げたのだそうだった。二階にいて伸子は知らなかった。
「ちょいとしたことをやるんだな、あの娘。――僕はそうとは思わないでね、急に何かの都合で、あなたの予定が変更されることもあり得るんだろう、と思ってね」
 ほほ笑みとも云えないしわが、柴垣の口辺によった。このごろ蜂谷良作とばかり歩いている伸子への感想が、総括してそこに意味されているのだった。
「おめにかかってよかったわね」
 強いて何も説明しないが、誤解をのぞんでいない者の表情で伸子が云った。
「どなたとでも、お約束はお約束よ」
「いや、それで僕もさっぱりしましたよ」
 伸子はベルネの家の方へ柴垣は郵便局のある電車通りを先へ、わかれた。
 その|秋の展覧会《サロン・ドオトンヌ》には、パリで客死した磯崎恭介の作品と遺骨をつれて日本へ帰って行った須美子の作品が入選している。ほかに、石井柏亭の「果樹園」が二科から特別出品されて注目をひいていた。アマンジャンのシャボン箱の絵のようにただきれいな翡翠《ひすい》色と瑠璃《るり》色の効果を重ねた婦人像と同じ壁の一方にかけられて「果樹園」は現代古典のおもむきを示した。日本の展覧会場でその絵を見たとき、伸子は「果樹園」の画面に線がこれほど特色のある役割をもっているとは心づかなかった。サロンの出品画が多くが、気がきいて警抜な色の効果、コムポジシォンなどばかりを目ざしているので、「果樹園」の正統派のつまらなさが面白かった。そのころパリに滞在していた日本のある漫画家も、支那靴をはいた足で鬼を踏まえている鍾馗《しょうき》の大幅絹本を出品したりもしている。その墨絵は伸子に五月節句の贈りもののようにしか見えなかった。
 もう一度、みんなで観ておこうという話がクラマールに住む日本の人々の間にきまった。
 その午後、伸子は早すぎると思ったが、定刻より三十分も早く、物置の二階をアトリエにしている画家の亀田夫妻のところへ行った。蜂谷良作も来るはずだった。それで伸子も早めに来たと思われはしまいか。伸子はめずらしくすこし気をひけてアトリエをあけたら、意外にも、そこには一座の顔ぶれがそろっていたのだった。
「みなさん、たいへんお早かったのね」
「ええ。ですから、お迎えにあがったんですわ」
 絹の外出着の上からはでな色模様のゴム製エプロンをかけた亀田の細君が若々しくさえずるような調子で料理兼用のストーヴのわきから伸子に云った。
「おもったより、早くいらっしゃれてよかったわ、ねえ、あなた」
「うん」
 むかえに行ったって――誰が、誰を、迎えに行ったのだろう――伸子は誰か
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