フ横わっている隣室へいった。その室に須美子がいなくなると、客たちの間には低く話しがかわされるのだった。
あけがた、宿のマダムがドアを叩いた。そしてあついコーヒーが運びこまれた。
四
朝九時ごろに、伸子はいったんペレールへ帰った。朝飯がはじまろうとしているところだった。伸子はテーブルのよこに立って熱い牛乳をのんだだけで、まだ片づけてないつや子の部屋へはいって、午後二時までひといきに眠った。
出なおして、伸子はこんや最後のお通夜につらなるつもりであった。つや子の室の隅においてあるトランクから、夜ふけてきるために、もう一枚のスウェターを出していると、アパルトマンの入口でベルが鳴った。マダム・ルセールが取次に出て何か云っている声がした。泰造と多計代とは出かけてしまっていた。入口のドアをそのままにして、マダム・ルセールが寝室の方へ来る。そのとき、つや子がそれまでひっそりして花のスケッチをしていた客間から、とび出して、伸子のいる室へ入って来た。
「ごめんなさい、忘れて。お父様が、これをお姉様に見せて、って――」
一枚の名刺を伸子にわたすのと、マダム・ルセールが、
「マドモアゼル。ムシュウ・チグーサがおいでです。お約束してあるとおっしゃいます」
というのと、同時だった。千種清二と印刷されている名刺の肩に、泰造の字で、一昨日大使館にて会う。伸子にぜひ面会したき由。九月二十九日午後来訪の予定。と走りがきされている。千種清二というひとの住所には、日本大使館がかかれていた。
名刺を手にもったまま伸子は、気がすすまなそうに、ちょっとだまって立っていたが、
「ありがとう、マダム・ルセール。わたしが彼に会います」
伸子は入口に行ってみた。そこに立っているのは、二十四、五に見える、陰気そうな青年だった。伸子は、友達に不幸がおこって、すぐ出かけるところだからとことわって、客間へ案内した。つや子が、あわてて画架の上のカンヴァスをうらがえしている。伸子は、むしろつや子にいてもらいたかった。
「いいのよ、そのまんまで、つや子さんも失礼してここにいたら?」
客間におちついたその青年を見ると、泰造がうけとって来た名刺と、そのひとからじかに伸子がうけとる感じとの間に、ちぐはぐなものがあった。パリ駐在の日本大使館の人たちといえば、書記官の増永修三だけがそうなのではなく、書類をあつかっている窓口の人々まで、なかなか気取っているのが特徴だった。ベルリンの日本の役人は官僚的に気取っていたが、パリのそういう日本人たちは、その人たちだけにほんとのフランスの洗煉がわかっているというように気取っているのだった。いま伸子の前で長椅子に腰をおろしている千種清二という青年は、そういう気風をもっている大使館員ごのみの服装でもなかったし、外交官めかしい表情もなかった。彼はごくありふれてごみっぽかった。それはパリにいる日本の画家たちや蜂谷良作の野暮さともちがうものだった。伸子は、
「何か御用でしたかしら」
ときいた。
「おいそがせするようでわるいけれど」
千種というその青年は、がさっとしたところのある低い声で、
「実は、いろいろあなたの話をうかがいたくて来たんですが――」
伸子に時間がないというのを、不機嫌にうけとっている表情をあらわにして、顔をよこに向けた。伸子の方は、千種のそんなものの云いかたや表情から、いっそう彼への冷静さを目ざまされた。伸子は反語的に、
「おうちあわせしてないのにおいで下すったものだから――失礼いたします」
と云った。そして、そのままだまりこんだ。
千種は、長椅子にかけている上体を前へ曲げて開いている膝に肱をつっかい、髪の毛を指ですくようにした。その顔をあげて、
「僕はかねがねモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ行ってみたいと思っていたんですが」
と話しはじめた。
「あなたがパリへ来られたときいて、ぜひ一度、それについて、いろいろじかにおききしたいことがあって――それで実はお邪魔したんです」
わきにいるつや子が、そういう話には妨げになるという素振りだった。それを伸子は無視した。
「――大使館のかたが、わたしに入国許可《ヴィザ》の手つづきをおききになるのなんて、何だかおかしい」
そういう伸子の声に、笑いにかくされている批評がこもった。
「そんなことはもちろんわかっているんです。そうじゃあなく――僕はそうじゃない方法でモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ入りたいんです」
非合法の方法でモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ行きたいという意味らしかった。何のために、そんなことを伸子にきくのだろう。伸子にそんなことを訊くような組織的でない生活をしているひとに、非合法でモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ行く必要のあろう道理はない、と思えるのだった。
「わたしにおききになるのは、見当ちがいです。わたしなんか、ヴィザもヴィザ、大したヴィザで、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へは行ったんですから――藤堂駿平の紹介で……」
「それはそうでしょうが、ともかく一年以上モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいられたんだから、その間には自然いろんな関係が、わかられたはずだと思うんです」
あいての顔を正視しないで長椅子の上に前かがみになり、心に悩みをもってでもいるらしい青年の姿態で、しつこくいう千種の上に、伸子の視線がきつくすわった。いまの伸子にパリで会っていて、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へは藤堂駿平の紹介で行ったのだったときけば、むしろ、そうだったんですか、と下げている頭も上げて、何となくびっくりした眼で伸子を見なおすのがあたりまえのような話だった。少くとも、伸子自身は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ行こうとしていたころの自分と、現在の自分との間にそれだけの距離を自覚しているのだった。ところが、千種とよばれるこの青年は、そういう点については、さものみこんでいるというように無反応で、それはそうでしょうが、一年以上も云々と話をすすめて行く、その調子は、伸子に本能的な反撥を感じさせはじめた。
「一年以上モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に居りますとね、あなたの考えていらっしゃるのとは正反対のことがわかって来るんです。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に合法的にいる日本人と、非合法に行っている人たちの間には、橋がないってことが、はっきりわかるんです。ちっともロマンティックなことなんかありません――わたしは、ぴんからきりまでの合法的旅行者なんですもの」
「――」
千種とよばれる青年は、しばらくだまって何かじりじりしているように、また髪を荒っぽく指ですいた。
「あなたの書いたものは、よんでいるんです。あなたが、ソヴェトに対してどういうこころもちをもっていられるかってことは、僕にはわかっているつもりです」
「それはそうでしょうと思うわ。わたしは、ソヴェトを評価しているんですもの。一人でもよけいにソヴェトについて、偏見のない現実をしるべきだ、と信じているんですもの。でも、わたしがそういう心もちでいるから、何か特別のいきさつがあるんだろうとでも思っていらっしゃるなら、つまり、それがもう、一つの偏見のあらわれよ」
「…………」
伸子は、ちょっと小声になって、
「つや子ちゃん、何時ごろかしら」
ときいた。客間ととなりあわせてドアのあけはなされている食堂の旅行用の立て時計をつや子が見に行った。
「三時四十分」
つや子はそのまま食堂の椅子にのこった。そして、テーブルの上へ船のエハガキのアルバムをひろげはじめた。
千種とよばれる青年は、伸子の顔を見ない姿勢のまま、たしかめるようにカフスの下で自分の腕時計を見た。
やがて、かえる挨拶がはじまるかと待っている伸子に、千種は、
「どうも、あなたの云われることが信じられない」
と云い出した。
「必ず、わかっていられると思うんだがなあ」
――伸子の心持が鋭い角度でかわった。伸子は、不愉快に感じたつよい声の表情をありのまま響かせて、
「あなたは、わたしから何をきかなければならなくて[#「きかなければならなくて」に傍点]、いらしっているのかしら」
何をきかなければならなくて、というところに、身のかわしようのない抑揚をつけて訊いた。
「大使館の方々って、大体、良識《ボン・サンス》だの|好い趣味《ボン・グー》だのって大変むずかしいのに、あなたの社交術はまるで別ね。失礼ですけれど、あなたは、わたしのところへいらっしゃるよりも、フランスの共産党へいらっしゃるべきだったわ。そして、いまおっしゃったようなことを、おっしゃって見るべきだったわ。もし、あなたがわたしにわからない方法でモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ行くべき方なら、その理由からわたしのところへなんぞ決していらっしゃるはずがないんです。わたしに、それだけは、はっきりわかります」
「…………」
伸子は、そろそろ椅子から立った。
「失礼ですけれど、わたし、もう行かなければならないから……」
もう思いきったという風に、千種とよばれる青年も長椅子から立った。
「その辺まで御一緒しましょうか」
「……仕度いたしますから、どうぞおさきに」
玄関で外套へ腕をとおしながら、千種は、
「日本じゃ、また大分共産党の大物がやられているらしいですね」
と云った。
「そうらしいことね」
ロンドンにいたとき、国際新聞通信《インターナショナル・プレス・コレスポンデンス》のそういう記事が伸子の目にはいっていた。それには内容のこまかいことは報じられていなかった。
いまの伸子は、この千種とよばれる男に早く出て行ってもらいたいばかりだった。
「とうとう佐野学もやられたらしいですね」
それをきいて、伸子は、同じ緊張のない調子で、
「そうお」
というのに、意識した努力を必要とした。
「じゃ失敬します」
「さようなら」
出てゆく千種のうしろに玄関の厚いドアをぴっちりしめると、伸子は、そこに立ったまま、羽ぶるいする鳥のように大きく両腕をふって、
「あ!」
と、息をつく声を立てながら、自分の両脇腹へ、おろした両腕をうちつけた。つや子が、
「お姉さま」
と食堂から出てきた。伸子はつい、
「お父様ったら、あんなひと、来させになるんだもん」
客間の方へもどりながら、じぶくった娘の声で妹に訴えた。
「このひと、何だかこわかった――」
話の内容からではなく、千種という見知らない男と伸子が応待していた間の、どこか普通でなかった雰囲気を、つや子は少女らしい敏感さで云っているのだった。
「お姉さまはもう磯崎さんのところへ行かなけりゃいけないんだけれど、つや子ちゃん、一人でいい?」
「――いいわ。おかあさま、きっともうじき帰っていらっしゃるから」
「ベルが鳴ったら、自分で出ないで、マダム・ルセールに出てもらいなさい、よくて。だれもいないときならそのままにしておいていいから」
「そうする」
出かける仕度をしている間じゅう、つや子と口をききながらも、佐野学もつかまったという、さっきの言葉が伸子の頭からはなれなかった。佐野学という名は、日本共産党の指導者として、一般に知られている名だった。日本にいた間はもとよりのこと、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に来てからも、その人についての伸子の知識はごく漠然としたもので、理論的に理解が深められたというのではなかった。けれども、一つの国で共産党の指導者という任務が、どれだけ重要な意味をもつものであるかということは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]暮しをしているうちに伸子の精神にうちこまれていた。佐野学がつかまったということは、非合法ながら成長しつつある日本の共産党にとって、打撃であることを、伸子は実感にうけとった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で去年の三月十五日の大検挙を知ったときは、それが泰造から送られた赤インク
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