フカギつきの新聞を通じてのことだっただけに、伸子は自分という個人にかけられる赤インクのカギの窮屈さの面だけを痛切にうけた。こんどは佐野学もつかまった、それが本当だとすると、いまの伸子は、それを日本の共産主義運動にとっての事件として感じた。共産主義に対する「弾圧」の真の意味、そういうことを行わずにいられない権力の本質的な非条理は、ヨーロッパへ来てから伸子にもまざまざとわかるようになった。
考えこみながら出かけていた足を、伸子は急にとめた。もしこのまま磯崎恭介の葬式に参列するとすれば、スカートに毛糸のブラウスの服装では、失礼すぎた。伸子はつや子に、いそいで外出の仕度をさせ、ペレールを出た。そして、ほど近いワグラム広場のわきの服飾店で出来合いの黒い服を買った。ぬいだスカートとブラウスとをボールの小箱に入れさせて、それをつや子が散歩がてら家までもってかえるわけだった。同じ広場のカフェーでちょっと休んで、伸子は、
「そこをまっすぐ行けば、いやでも家の前へ出るから、いい? 気をつけて、ね」
紺のハーフ・コートを着たつや子のうしろ姿が、人ごみの間に見えなくなってから伸子はタクシーをひろった。
佐野学が捕まったことに連関して日本ではまた幾百人か幾千人かの労働者をこめた人々が、ひどい目にあっているに違いないのだ。
それにまるでかかわりなく、デュト街の古びた建物の中では、しみのある壁の下の寝台で磯崎が死んでいる。パリで、子供を死なせ、重ねて磯崎に死なれた須美子の孤愁は、伸子の身までを刻むかのようだ。そのような須美子に向って伸子はひたむきな心でタクシーをいそがせているのではあったが、このパリでも七月末にそんなことがあったように、日本でも多くの人々が捕えられ、歴史のなかに古い力と新しい力とが対立してはげしくもみ合っているさなかに、それとは全く無縁に磯崎の生涯が終って、そこにつきない悲しみばかりがのこされてあることは、伸子にふかく物を思わせるのだった。画家としての磯崎恭介の努力と、自分をすててそれを扶けた須美子の骨折りとは、恭介の生涯の終点がここにあって見れば、旧いものがその極限で狂い咲きさせている新しさと云われるものに到達するまでに、使いつくされた恭介の短い生命だったと云える。
デュト街の磯崎の住居は、葬式の前日らしい人出入りだった。伸子が着いた時、区役所からの埋葬許可証のことで、昨日は見かけなかった二十二・三の若い人が、すれちがいに出直すところだった。
「ほんとに、みなさまのお世話になって――」
伸子が来るまでに、三時間ほどよこになったという須美子は、きのうからの黒い服で、自分で自分を支えようとするようにかたく両手を握りあわせて、客間の椅子にいた。
「あんまりみなさまが御心配下さいますから、横になって見ましたけれど、とても眠れなくて……」
低い、とりみだしたところのない須美子の声だった。
「少しは何かあがれて」
「ええ、ちょっと」
伸子がそこに来ているということは、葬式準備の事務的な用事のためには何の役に立つことでもなかった。伸子は、須美子の苦しい心の、折々の止り木としてそこにいるのだった。用事がすこし遠のくと須美子は、伸子のよこへ来て腰をおろした。
「気分は大丈夫?」
「ええ」
かわす言葉はそれぐらいだったが、それでも二人がだまって互に近くいるそのことに、悲しくせわしい事務の間の、やすらぎがあるのだった。悲しみも一人の胸に、事務的な判断も一人の肩にかかっている須美子に、そういう瞬間が必要なのだった。
その晩は八時すぎに、伸子ひとりだけ帰った。磯崎の客間で夜どおしをするのが男のひとたちばかりなら、又それとして男のひとたちにも、くつろぎかたがあり、したがって須美子にもくつろぐときがあるらしかった。
五
磯崎の葬式がすんで二日めの午後、マダム・ラゴンデールの授業をうけるために帰ったホテルの屋根裏部屋で、伸子はながいこと一人でいた。
ペレールのうちのものたちにとっては伸子の友達の磯崎恭介が、このパリで急死して、あとには小さい子供とのこされた若い妻がいるというようなことは、まるでかかわりない生活の気分だった。伸子は、この数日、ひとり痛む心をもって、デュト街の須美子の家とペレールの家、自分の屋根裏部屋と、まわって暮した。
だまって、じっとしていたい心持になっている伸子は、往来越しに向い側の建物のてっぺんにある露台が見えるディヴァンの上で、おもちゃの白い猿を片方の腕に抱いてよこになっていた。
このごろのペレールの家の空気には、何か伸子にわからないよそよそしさがあった。それは出立前のあわただしさというものとは、ちがったところがあった。たとえば、多計代の健康のためには、またインド洋の暑さをくぐって帰るよりシベリア鉄道で行った方がいいという説がこのごろになっておこっている、それについても、多計代の気持が伸子にわからなかった。ソヴェト同盟については、根づよい偏見にみたされている多計代だから、シベリアを通ってゆくということには、いろいろの不安があるわけだった。その話がもちあがってから、伸子に不思議と感じさせるのは、多計代がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]まででも伸子と一緒に行こうと云わないことだった。
一週間ばかり前、医師から忠告されて、ではロンドンで契約した十一月六日マルセーユ出帆の太洋丸の船室を解約しようかという話が出たとき、つや子は、
「ほんと? おかあさま。――つまらないなあ」
と歎息した。
「さわぐものじゃありません。まだきめてはいないんだから――」
それ以来、みんなで相談するというよりも、多計代一人の頭のなかで、この問題は、伸子にわからない複雑さで扱われているらしかった。
やがて五ヵ月をよその国々に暮して、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を出て来たときよりも、もっと深く、もっと現実的にソヴェト同盟の生活を理解し愛すようになって来ている伸子として、ソヴェトのわるくちを冗談のたねにして笑いながら、ポケット・ウィスキーをのむような旅行者一行と、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰ってゆくことは、堪えにくいことだった。多計代に誘われても、伸子は、それをことわっただろう。伸子はひとりでモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰りたい、ひとりで。愛するモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ心と体をなげかけるように。――伸子としての気持はそうなのだったが、多計代が、その問題では伸子を避けていることに、自然でないものが感じられているのだった。
伸子はやがてディヴァンの上へおきなおり、のばした脚の上にスーツ・ケースをのせて、その上でモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の素子への手紙をかきはじめた。
「この前書いてから、たった六日しかたっていないのに、ここでどんなことが起ったか、あなたに想像できるかしら」
伸子は、磯崎恭介死す、という電報をうけとった夜の情景から、恭介の葬式の日の模様を素子にしらせた。恭介の葬式が行われたペイラシェーズの式場の様子は、六月に素子がまだパリにいたとき、恭介の上の子供が亡くなって、素子もよく知っているわけだった。
「お葬式の日は、こんども雨でした。子供さんの葬式の日、雨はふっていたけれども、あれは若葉にそそぐ初夏のどこか明るい雨でした。さきおとといの雨は、つめたかった。もうパリの十月の時雨でね、ペイラシェーズの濡れた舗道にはマロニエの落葉がはりついていました。須美子さん、看護婦に抱かれている小さいあの白い蝶々のような赤ちゃん、そのほかわたしを入れて八九人の人のいるがらんとした礼拝堂のパイプ・オルガンは、こんどは恭介さんのために、鎮魂の歌を奏しました。正面扉についている小さいのぞき窓のガラスは、再びルビーのように燃え立ちました。パイプ・オルガンが、ゆたかな響を溢らして鳴りはじめたとき、わたしは、隣りにかけている須美子さんの美しい黒服の体が、看護婦に抱かれている子供のそばからも離れ、もちろん、わたしたち少数の参会者の群からも離れて、恭介さんとぴったり抱きあいながら、徐々に徐々に翔《と》び去って行ったのを感じました。わたしにそれがわかるようでした。それから、須美子さんがのこった妻として、また悲しい雑事のなかに覚醒することを余儀なくされて、そのとき、それがどんなに彼女にとってむずかしいことだったかも。須美子さんは、でも、ほんとに立派に、苦しいこれらの瞬間をとおりました。
『骨の町』の柱廊のはじへ雨がふきこんで、あすこは濡れていました。子供のお骨のしまってあるとなりの仕切りに、恭介さんのお骨がしまわれて、その鍵が、須美子さんの手のなかにおかれたとき、わたしの脚がふるえました。一人の若い女が、外国で、こういう鍵を二つ持たなければならないということは、何たることでしょう。
須美子さんはたいへん独特よ。この不幸を充実した悲しみそのもので耐えている姿は、高貴に近い感じです。あのひとには、何てしずかな勁《つよ》い力があるのでしょう。わたしの方が、まごついたり、当惑したり、よっぽどじたばた[#「じたばた」に傍点]です。きのうデュトへ行ったら、須美子さんは、わたくし帰ることにきめました、と、いつものあの声で云いました。須美子さんが日本へ帰るということは、片方の腕に生きている赤ちゃんを抱き、もう一つの腕に二つの御骨をもってかえるということなのよ。
この四日間ばかり、あなたがパリにいたらと思ったのは、わたしだけではなかったろうと思います。わたしのように役に立たないものでも、須美子さんには必要だったのだもの。でも、いい工合に、実務的な面では親切に扶《たす》けてあげる若い方があるらしい様子です。いまの須美子さんに対して、人間であるなら親切にしずにはいられません」
伸子は、そこまで書いて、しばらく休み、それから千種という男からきいたニュースにふれた。
「正直に云って、ペレールの人たちが、このことについて知っていないのは、おおだすかりです。でもわたしたちは、それについてもっと知りたい。知っていなければうそだと思うんです。日本の状態[#「日本の状態」に傍点]として、ね。そちらではきっと具体的にわかっているでしょうけれど」
そう書きながら、伸子は、こんな事情は蜂谷良作には、いくらかわかっているかもしれないと思った。素子の手紙へは、それをかかなかったが――
「こんなに幾重ものことで心をつかまれているわたしだのに、マダム・ラゴンデールったら、きょうの稽古の間に、二度も、あなたは街へ出て、カフェーをのみたいと思いませんか、ってきくんですもの! テキストのどこにも、そんな問答はありはしないのよ。マダム・ラゴンデールは、ほんとにただそういう会話の練習をしているだけだという表情で、質問をくりかえしました。わたしは、二度ともノンで答えました。わたしは、それをのぞんでいません、て。心の中で笑いだしたくもあり、腹も立ち、よ。この女教師は『|非常に《トレ》|親切な《ジャンディ》』日本婦人たちの先生というよりも、おあいてのような関係にいるのね、きっと」
伸子は、そこでまたペンをとめた。ペレールのものが、シベリア経由で帰ることにきまれば、伸子は当然素子に、たとえ一日だけにしろ、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で世話をたのまなければならないわけだった。その上、もうじき雪がふり出すであろうシベリア横断の間で食糧に不自由しないように、とくに果物のかかされない多計代のために、十分ととのえた食糧籠の心配もして貰わなければならない。伸子自身がパリから動こうとしないで、そういう世話だけたのむとしたら、素子はそれを、どううけとるだろう。伸子には自信がなかった。この問題は、ほんとに決定してから、素子へ長文電報をうってもおそくないときめた。
ところが次の日、伸子にとって思いがけない不愉快な事がおこった。朝九時すぎ、伸子がいつものようにペレールの家へゆこうとして屋根裏部屋からエレ
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