A伸子の友人であるよりも、素子の古い知り合いだった。パリへ来たとき、素子と伸子が心あてにしたのは、この二人であった。ヴォージラールのホテルへ移り、佐々の一行がパリへ来るまで伸子たちは、磯崎夫妻にいろいろ世話になった。佐々のものがマルセーユに着くほんのすこし前、磯崎は、サンジェルマンの方へ里子にあずけておいた上の男の子に死なれた。その葬式がペイラシェーズで行われたとき、伸子はいたましい思いにつつまれて、喪服姿の須美子の介添えをしたのに。――
 ロンドンから帰って伸子が磯崎の住居をたずねたのは、たった一週間ばかり前のことだった。そのときの恭介には病気らしいところはどこにもなかった。
 サロン・ドオトンヌに出す制作がもうすこしで終るところだと云って、むしろいつもより活気づいて張りきっていた。伸子のところへ、電報をよこした磯崎の妻の須美子の言葉かずのすくない美しい様子と、ひよわい白い蝶々《ちょうちょう》のような子供の姿を思うと、伸子は、とても、そのままあしたの朝まで待てなかった。
「お父様達、かまわずあがっていらして下さい。わたし、行ってくるわ」
 佐々の一家はモンマルトルの「赤馬」というレストランで、のんびりと居心地よく、長い時間をつぶして帰って来たところだった。電報は、午後二時発信となっている。伸子は、そのときから今まで自分たちが過した時間の内容を考えて一層切ないこころもちだった。ハンド・バッグをあけ、もっている金高をしらべた。
「わたし、多分こんやは、あっちへ泊りますから」
 泰造も外へ出て、伸子のためにタクシーをつかまえた。
「おそくなったら、あしたの朝になってから、かえりなさい、夜中でなく」
「そうします」
 そして、タクシーは走り出した。ロンドンへ立つまで、よく夜更けに、素子と一緒に通った道すじ――トロカデロのわきからセイヌ河をむこう岸にわたる淋しい道順を通って。
 デュト街へはいったとき、朝の早いこの辺の勤勉な住人たちの窓々はもう半ば暗くなっていた。寝しずまろうとしている街のぼんやりした街燈の光をはらんで何事もなかったように入口をあけている磯崎の住居の階段を、伸子は爪先さぐりにのぼって行った。磯崎恭介は死んだ。妻と子とをのこして。それだのに、彼の一家が住んでいる建物のどこにも、その不幸のざわめきさえ感じられない。人の生き死にかかわりない夜の寂しさが、一人で爪先さぐりに階段をのぼってゆく伸子にしみとおった。ペレールで見た電報が信じられないような感じにとらえられた。
 伸子は息をつめて、磯崎の室のドアをノックした。無言のまま、すぐ扉があいた。廊下に立っている伸子を見て、ドアをあけた見知らない日本の男のひとは、
「ああどうも」
と、あいまいに云って頭を下げ、体をひいて伸子を、室内に入れた。
 年配のまちまちな四五人の日本の男のひとたちが、いつものとおり無装飾なその室の長椅子のところにいた。伸子は何と云っていいかわからず、だまってそこにいる人々に頭を下げた。
「奥さんはあっちに居られますから――どうぞ」
 伸子は、丁寧なものごしで示された隣りの寝室の方へ歩いて行った。両開きのフレンチ・ドアのかたそでだけが開け放されている。足音をころしてその敷居のところへ立ちどまったとき伸子のひとめに見えた。ひろい寝室のむこうの壁につけておかれている寝台と、その上に横わっている磯崎恭介、わきの椅子にきちんとかけて、濃いおかっぱの頭をうなだれている須美子の黒い服の姿。――人の気配で須美子は頭をあげた。伸子を認めた瞬間、須美子の黒いすらりとした姿が椅子から立ち上ると同時に、はげしく前後にゆれた。伸子は思わずかけよった。
「佐々さん」
 繊《ほそ》くて冷えきった須美子の指が、万力《まんりき》のように伸子の手をしめつけた。
「よく来て下さいました」
「ごめんなさい。電報、やっとさっき拝見したもんだから」
 伸子は、ささやいた。
 壁ぎわのベッドの上によこたえられている磯崎恭介の眠りをさますまいとするように。
「パリにいらっしゃりさえすればきっと、来て下さると思いましたわ。佐々さん。わたしも、こんどという、こんどは……」
 伸子の左肩の上に顔をふせた須美子の全身がわなわなとふるえた。伸子は両手でしっかり須美子を抱きしめた。須美子は、けさから、どんなにこうしてすがりつける者をもとめていたか。それを、身がきざまれるように伸子は感じた。ついこの六月下旬に、須美子は田舎にあずけていた上の子供に死なれたばかりだのに。
「なんていうことなんでしょう!」
 須美子の上にかさなる悲しみに対していきどおるように伸子が云った。
「歯です」
「――歯?」
「おととい、急に奥歯がひどく痛むって、お医者さまへ行きましたの。抜いたんです。そこから黴菌《ばいきん》が入ったんです」
「…………」
 ヴォージラールのホテルにいたとき、素子が歯痛をおこしてさわいだことを、伸子はおそろしく思い出した。あのとき磯崎から紹介された医者があった。あの医者へ、こんどは恭介自身が行ったのだろうか。その医者の、あんまり日光のよくささない診察室や、応接室にあった古いソファーが伸子の記憶によみがえった。
「ほんとに急だったんです。急に心臓がよわってしまって――磯崎は自分が死ぬなんて、夢にも思っていませんでしたわ」
 須美子の、濃いおかっぱの前髪の下に、もう泣きつくして赤くはれた両方の瞼がいたましかった。
 伸子は、須美子にみちびかれて、磯崎の横わっている寝台に近づいた。須美子が顔にかけてあるハンカチーフをのけた。その下からあらわれた磯崎恭介の顔は、目をつぶっていて、じっと動かないだけで、全くいつもの恭介の顔だった。贅肉のない彼の皮膚は、日ごろから蒼ざめていた。いくらか張った彼の顎の右のところに、直径一センチぐらいのうす紫色の斑点《はんてん》ができていた。その一つの斑点が磯崎の命を奪った。
 磯崎のいのちのないつめたい顔を見つめているうちに、伸子は、自分の体も、さっき須美子の体がそうなったように、前後にゆれ出すように感じた。そして、壁がわるいんだ。壁がよくなかったんだと心に叫んだ。
 磯崎たちの住んでいるデュト街のこの家は、パリの場末によくある古い建物の一つで、入口から各階へのぼる階段のところの壁などは、外の明るい真夏でも、色の見わけがつかないほど暗く、しめっぽく、空気がよどんでいた。壁に湿気と生活のしみがしみついていることは、室内も同じことだった。磯崎たちは、がらんとしたその室内に最少限の家具をおいているだけで、意識した無装飾の暮しだった。この寝室も、磯崎の横わっている寝台が一つ、むき出しの床の上で壁ぎわに置かれているだけで、あとにはこの部屋についている古風な衣裳箪笥が立っているきりだった。寝台の頭のところの壁の灰色も、年月を経て何となしぼんやりしたいろんなむらをにじみ出させていた。その室の壁のぼやけたしみと、磯崎の右顎に出たうす紫のぼんやりした斑点。――伸子は、この建物に出入りするようになったはじめから、真暗でしめっぽいこの家の階段の壁やそこいらに、健康によくないものを感じていたのだった。でも、今になってそれを云ったところでどうなろう。
 須美子は、そっと、気をつけて、眠っている人がうるさがらないようにという風に、恭介の顔の上にハンカチーフをかけた。
「お仕事、どうなったかしら」
 先日あったとき、もうじき描き終ると云っていた恭介のサロン・ドオトンヌのための絵だった。
「あれはすみましたの。搬入もすまして――ひとつは、その疲れがあったのかもしれませんわ」
 二人は、磯崎恭介の横わっている寝台を見下しながら、小声で話すのだった。
「小さいひとは? マダムのところ?」
「ええ。けさ呼んだ看護婦さんが、親切な方で、ずっといてくれますの」
 少しためらっていて、伸子は須美子に云った。
「急なことになって、もしわたしのお金がお役にたつようなら、いくらかもって来ましょうか。わたしは少ししかもっていないけれど、借りることができるから――」
「ありがとうございます。今のところよろしいんですの。丁度、磯崎のうちから送って来たばかりのものが、まだ手をつけずにありましたから――」
 それをいうとき、須美子の顔の上にいかにも辛そうな表情がみなぎった。日ごろから、須美子は、磯崎の両親に気をかねていて、上の子に死なれたときも、それは、須美子の落度であるように云われた。突然の悲しみの中でも須美子は義理の親たちの失望が、自分に対するどんな感情としてあらわれるかを知っているのだった。
 四五人来あわせている人々のなかで、一番年長のひとが、和一郎の美術学校時代の美術史の教授だった。ひかえめに、ロンドンにいる和一郎の噂が出た。磯崎恭介に近い年かっこうのほかの人たちは、みんな画家たちだった。伸子がその人々と初対面であり、こういう場合口かずも少いのは自然なことであったが、磯崎恭介そのひとが、これらの人々との間に、果してどれだけうちとけた親しいつきあいをもっていたのだろうか。異境で急死した人の女の友達の一人としてその座に加っていて、伸子がそう思わずにいられない雰囲気があった。パリの日本人から自分を守って努力していたような磯崎恭介。その人の意志にかかわらず突然おこった死。ここにいる人たちは、ほかの誰よりちかしい友人たちではあろうけれども、そこに来ている四五人の人々の間で磯崎についての思い出が語られるでもなかった。友人たちの心から話し出されるような逸話をのこしている磯崎でもないらしかった。
 しばらくして、須美子も寝室から出て来てその席につらなった。彼女は半円にかけている客たちに向って、ひとりだけ離れて一つの椅子にかけた。
 だまってかけている人々の上から、夜ふけの電燈がてらしている。須美子は、日ごろから着ている黒い薄毛織の服の膝の上に、行儀正しく握りあわせた手をおいて、悲しみにこりかたまって身じろぎもしない。黒いおかっぱをもった端正な須美子の顔の輪廓は、普通の女のように悲しみのために乱されていず、ますます蒼白くひきしまって、須美子そのものが、厳粛な悲しみの像のようだった。
 須美子のそのような内面の力を、おどろいて伸子は眺めるのだった。須美子の純粋な精神が、悲しみのそのようなあらわれのうちに充実していて、彼女のあんまりまじめな悲しみようにうたれた人々は、なまはんかな同情の言葉さえかけるすきを見出さないのだった。
 沈黙のうちに、重く時がうつって行った。伸子は寒くなった。失礼いたします、と、ぬいであった外套を着た。
「須美子さんは、少し横におなりになったら?」
「ありがとうございます」
「さむくないかしら」
「いいえ」
 僕も失礼して、と二人ばかり外套を下半身にまきつけた人があった。須美子は動かない。そしてまた沈黙のときがすぎた。
 こんなに苦しく、こりかたまっている悲しみの雰囲気を、通夜をする客たちのために、もうすこししのぎよくするのが、いわば女主人側でたった一人の女である自分の役目なのではなかろうか、と伸子は思いはじめた。日本の通夜には、それとしてのしきたりもあって、伸子に見当もつくのだったが、フランスの人々は、こういう場合どうするのだろう。何かあついのみものと、ちょっとしたつまむものが、夜なかに出されて、わるいとは思えない。でも、それは、どうして用意したらいいのだろう。デュトの街では夜が早く更けて、カフェーが夜どおし店をあけているという界隈でもなかった。パリの生活になれず、言葉の自由でない伸子は、宿のマダムと直接相談することを思いつかないのだった。
 しばらくの間こっそり気をもんでいた伸子は、やがて、すべては須美子のするままでいいのだと思いきめた。彼女の深い悲しみに対して、伸子が、世間なみにこせこせ気をくばる必要はないのだ。彼女の悲しみを乱さなければ、それが一番よいのだ。磯崎と須美子は、恭介が生きていてこの人々とつきあっていたときの、そのままのやりかたで、今夜もすごしていいのだ。それが友達だ。
 須美子は、ときどき席を立って、恭介
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