|術家でも、そうかなあ」
 女としての伸子を全体としてうけ入れながら、彼女の考えかたには、どこまでも自分の考えを対立させ、かみ合わせてゆく手ごたえの面白さを味うように、利根亮輔は云った。
「人間の本能というものが――この場合には主として権勢に対する欲望だろうが――『共産党宣言《マニフェスト》』の現実にどんな要因《ファクター》として作用するかというようなことは考えませんか」
 彼のいうところでは、ソヴェト政権がこんにちまで保たれて来ているのは、そして、発展さえもしているように見えるのは、ロシア人民の文化の水準が、ヨーロッパ諸国に比べて低いからだというのだった。
「さもなければ、『プラウダ』一枚で、ああ完全に支配しきれるものではない」
「おかしなかた!」
 そのとき、二人が話していたチャーリング・クロスのカフェー・ライオンのテーブルの前で伸子はほんとにおこった顔と声になった。
「あなたのおっしゃることは、あんまり根拠がないわ。誰が、ソヴェト同盟を『プラウダ』一枚で動かしているでしょう。あすこの人たちには、自分たちで新しい暮しかたをやってゆく方法がわかったのよ。あなたが、その事実を見ようとしないなんて――」
 うそだわ、と言おうとしてちょっとためらった伸子を、利根亮輔は黒い怜悧さで輝いている眼で見つめながら、うながした。
「それで?――見ようとしないなんて?――」
 いくらか礼儀にかなう表現にかえて伸子は、
「知的|怯懦《きょうだ》だと思うんです」
と云った。
「――なるほど……」
 やがて、利根亮輔は、さも面白そうに笑った。
「ハハハハ。伸子さんは実に愉快な精神の原形をもっていられる。知的怯懦ねえ。――しかしね、伸子さん、あなたレオナルド・ダ・ヴィンチに懐疑がなかったと思えますか? 叡智はいつも懐疑から出発するんです」
 伸子は、
「もうおやめにしましょうよ」
 そう云って、テーブルから立つ仕度をした。
「日本は、ひどくおくれた国だから、それだけ男のひとは、女より特権をもっているんです。そういう意味で女は抑圧されている大衆なのよ。結婚して、そして離婚したっていうことは、これは女にとって何かのことなんです。わたしは、そういう女として、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に一年半暮したのよ。そして、生活そのもので、全体の方向としてあすこを肯定するんです。人々によろこびの生活の可能があるのを見ているんです。わたしのは、知的遊戯じゃないの」
 勘定書を手にとってカウンターの方へ歩きながら利根亮輔が云った。
「――伸子さんはエラスムスではなかったんですね」
 こういう会話そのものが、その本質では何をはっきりさせようとして、利根亮輔という男と伸子という女との間にかわされたのであったろう。
 伸子が、間もなくロンドンを去るというある曇り日の夕暮ちかく、利根亮輔と伸子とは人通りのまばらなバッキンガム宮殿前を、並木路沿いに歩いていた。歩きながら何気なく、利根亮輔が云った。
「あなたのようなひとを、思いきり自由に伸して、書きたいだけのことを書かしてみたら、さぞ愉快だろうなあ」
 その調子には、利根の一歩に自分の二歩を合わせて歩いている伸子の体を、つつんで流すような普通とちがう感じがこもっていた。しばらくだまって歩いていて、伸子がはっきり、
「駄目よ」
と、云った。
「駄目、そんなイリュージョン。本気にしたらどうするの」
 一人の人間を伸すということ。その人に書かせるというようなこと。そこにどういう方法があり、どういうことが起るのか、わかりもしないようなそんなことを、伸子が女だから、男の利根には、自分の力のうちでできでもしそうに思えるのだろうか。しかも、利根と伸子との間には、ことごとにと云えるほど、意見のちがいがあるのに。そんなことは、男と女との間であれば、とるに足りる何ごとでもないように利根亮輔には思えているのだろうか。伸子をひきよせる利根の話しかたが、伸子をおどろかせた。
「そうかなあ、イリュージョンかなあ。僕にはそう思えないんだが――」
「イリュージョンだわ!」
 伸子は、その雰囲気から身をもぎはなすように云うのだった。
「わたしの考えかたや気質があなたに興味があるというだけよ」
「じゃ、僕は、あなたにとって興味のない人間ですか」
「――まるで興味のない人と、話しながら歩いたりするかしら。――でも、それは別よ。そうでしょう? 別であり得るのよ」
 またしばらく黙って歩いて、バッキンガム宮殿のすぐ近くの角を曲るとき、伸子は、ひきこまれそうになっていた渦から解放されたほほ笑みで、
「利根さん」
とよんだ。
「わたしはね、ミス・マクドナルドでもないし、ミス・木村でもないの。だからね、対立があるからこそ協調してゆくっていうイギリスの流儀では、万事やってゆけないのよ」
「――そうか!」
 バッキンガム宮殿のまわりを、機械人形のように巡邏《じゅんら》している華やかな服装の若い近衛兵《ローヤル・ガイド》が、そのとき伸子のすぐわきで、まじめな顔つきで規則正しいまわれ右をした。

 伸子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいる素子へのたよりに、利根亮輔と話すいろいろのことを書いてやった。バッキンガムのまわりを歩いたことも。しかし、その散歩のとき短くかわされて、二人の間柄を決定した会話についてはふれなかった。
 今夜かあした、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ書く手紙のなかで、伸子は、「モンソー・エ・トカヴィユ」の七階へたずねて来た蜂谷良作と出かけて、モンソー公園に、こんなにゆっくりしていることについて、どう書くだろう。
 秋の公園の日だまりのなかで、伸子はそんなことについて、考えてはいてもちっとも心を煩わされていなかった。伸子は、いまというひとときのもっている条件のすべてをひっくるめて、楽にくつろいだ会話や戸外の空気の快よさを感じているだけだった。
 そろそろまた歩きはじめようとして蜂谷良作はベンチの上から帽子をとりあげた。
「いずれにしても、佐々さんは生活的だなあ。この間の晩、はじめてゆっくり話してみて、僕が一番感じたのはそこだった。――吉見君は、あれで、よっぽどちがうでしょう? あなたとは――」
 伸子は、蜂谷との間で、そこにいない素子をそういう風に話すのはこのまなかった。
「あのひとは、わたしよりずっとものを知っています、あれだけ、ロシア語がちゃんとしているんだもの」
 素子がよくものを知っていながら、その知っているところまで自分の生活そのものを追い立ててゆかないことも、いま蜂谷に説明する必要はない素子の一つの特徴だった。
 伸子と蜂谷良作とは、公園の奥にある池のところから小道づたいに、来た方とは反対の道を出口に向った。
「こんどこそ、わたし、本気でパリを歩いてみなくちゃ」
「そう急ぐわけでもないんでしょう」
「親たちが帰れば、わたしはすぐモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へもどります。だから――そうね、ひと月はあるでしょうね」
「そんなにさしせまっているのか」
 蜂谷は思いがけなさそうだった。
 二人は、モンソー公園の前にある広場めいたところのカフェーで休んだ。夕方になったら、俄《にわか》にうすらつめたくなった風がマロニエの落葉をころがしてゆく秋の公園前のカフェーには腰かけている人の数も少かった。
 公園の樹の間で街燈がともった。
 そのカフェー・レストランの内部にも同時に灯がはいって、パリの夜の活気が目をさました。
「佐々さん、ついでに、ここで夕飯をすまして行きませんか」
 ことわらなければならない理由もなくて伸子は、だまっていた。
「この間は、あんなにして不意に泊めてもらったりしてお世話になったし――いいでしょう?」
「――部屋をあけてあげたのは、わたしじゃなかったのよ、吉見さんよ」
「――じゃあ、その代表として。――ここなら、きっと、カキ[#「カキ」に傍点]がうまいだろう」
 半ば公園のあずまやのように作られているそのレストランは、女づれで来るような客で段々賑わって来た。身なりも気のきいた中年の粋《いき》な組が多かった。
 運転して来た自動車に鍵をかけ、それをズボンのポケットにしまいながら、わきに立って待っているつれの女のひとの肱を軽くとってレストランのなかへ入ってゆく男の物馴れた仕草などを眺めていて、伸子は、
「蜂谷さん、大丈夫?」
と、いたずらっ子らしく笑った。
「少し、柄にないところなんじゃないの? こんなところ――」
「そんなことはないさ」
 蜂谷は、ぽつんとまじめに答えた。そして、そのまま顔を横に向けた。伸子は、夕飯にかえらないことをペレールのうちへ知らせるために、電話をかけに立った。

        三

 もう二三日で九月が終ろうとしている風のつめたい夜の九時すぎ、モンマルトルの方から走って来た一台のタクシーがペレール四七番の前でとまった。ドアがあいて、なかから、つや子、多計代、泰造、しんがりに伸子という順でおりて来て、レースのショールをかけた肩を寒そうにしている多計代をとりかこみ、四七番の入口の大きいガラス戸の中へ一人一人消えた。八時すぎると、この辺のアパルトマンの入口はしめられた。ベルを押すと、門番が玄関わきにある自分たちの住居の中でスウィッチを入れ、その人が入る間だけ、入口のドアの片扉があくようになっている。佐々のものたちは、その僅の間をいそいでホールへすべりこんだ。みんなについてエレヴェーターのところへ行こうとしていた伸子は、門番の住居の小窓から、
「マドモアゼール」
とよびとめられた。
 玄関に向ってあいている門番の小窓には、背後から橙《だいだい》色のスタンドの光を浴びて、カラーなしのシャツ姿の爺さんが首を出していた。
「ヴォア・ラ! あなたへ、電報」
 細長くたたんである紙をさし出した。伸子は、不安なような、全く不安のないような変な気分で、それをうけとった。
「ありがとう」
 心づけを爺さんの手のひらにのせて、伸子はうちのものの佇んでいるエレヴェーターのところへ行った。
「――おや、電報かい?」
 多計代が、神経質にまばたきした。
「わたしのところへ来たのよ」
「吉見さんだろう」
 素子はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ着いたとき、ロンドンのホテルあてに伸子に電報をよこしたし、伸子たちがペレールへかえってすぐのときも、電報をよこした。ぶこ、かわりないか、やど知らせ、と、ローマ字で書いて。手紙の往復の間をまちきれない素子のこころもちが、その電文に溢れていた。いまも、伸子は、七分どおりモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]からだろうときめて、おどろかずに電報をうけとったのであった。折りたたまれた紙をあけて見て、伸子はまごついた表情になった。
「変だわ、これ。――何のことなんだろう」
 ケサ六ジ、イソ、ザ、キキョウ、スケシス
 スケシスというギリシャ語みたいなローマ字つづりで、いきなり戸惑わされた伸子は、冒頭の、ケサ六ジという一句の意味が明瞭で動かしがたいだけに、よけい判断を混乱させられた。わかるのは、この電報が素子からではないということだけだった。イソ、ザ、キキョウ、スケシス Iso za kikyo Sukeshisu とは何のことだろう。
「みせてごらん」
 泰造が、すこし顔からはなして読む電報を、わきに立って、伸子ものぞきこんだ。
「ね、――わからないでしょう?」
 ややしばらく電文を見ていた泰造が、
「これは、綴りが、ちぎれちまっているらしい。上の字へつくはずだったんじゃないか。イソザキ、キョウスケっていう工合に。――そういう名のひとを伸子は知っているかい」
「知っているわ」
 そう云われて、目をすえてよみ直した伸子の頬から顎へ鳥肌だった。
 ケサ六ジ、イソザキキョウスケ シス――死す――
「まあ!」
 それは伸子の心からのおどろきの声であった。
「どうしたっていうんでしょう!」
 若い画家である磯崎恭介と、やはり画を描く若い妻の須美子は
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