ェら日本へ帰るということが、つや子のたのしみらしかった。長椅子の上にずらりと並べられている船づくしのエハガキをわきからのぞく姉の伸子に、つや子はおかっぱの頭をすりつけながら、
「このひと、ほんとに船すき」
 目をエハガキからはなさないで云ったりした。
 ロンドンにのこった和一郎からは、小枝とよせ書のエハガキが来た。ロンドンの秋のシーズンがはじまります。この土曜日にクィーンス・ホールでシーズンあけの音楽会がありますが、エスモンド街にいながらにしてそれが聴けるのは幸です。ミセス・ステッソンもおかげで今年は冬がたのしみだと大満足です。そんな文面がいかにも一日のうちに、ひまな時間をたっぷりもっている人らしい和一郎の念の入った装飾的な文字でかかれて来た。
 そういう和一郎のたよりには、用心ぶかさがあった。少くとも、伸子にはそう感じられた。ロンドンとパリに離れていても、絶えず若夫婦の贅沢や浪費を警戒している多計代に対してよこすたよりには、和一郎たちも、むしろ彼らの生活の消極面から書いている。伸子は、どこへ行って何を見て、何をきいて、と二人で身軽に、好奇心をもって動いて暮している消息を、弟夫婦からほしいと思うのだった。
 クィーンス・ホールの音楽会をエスモンド街でいながらにして聴けるのは云々と、和一郎が個性のない丁寧さで書いてよこしているのは、新しくひいたラジオのねうちが早速あらわれているという意味の報告なのだった。
 和一郎と小枝がミセス・ステッソンのところへ引越して行って、三度目にホテルへ来たとき、はじめて和一郎たちの室が電燈でなくてガス燈だということを知らされて、佐々のものはみんなびっくりした。それも、和一郎が、ガスにしては部屋代がすこしはりすぎているようだね、と云い出したのがはじまりだった。ミセス・ステッソンのところでは、階下の客室、食堂、居間だけが電燈で、二階から上の部屋部屋では、昔ながらに蒼白いガス燈をつかっているというのだった。
「何だろうか、まあ! ガスが洩れでもしたら命にかかわることだのに。――お父様、あなただって御覧になったのに」
「いや、そこまでは、おれも気がつかなかった」
「やっぱり申上げてみてよかったことね」
 小枝が、泰造や伸子のうかつさをとりなすように、口をはさんだ。
「実は、僕たち、云い出そうかどうしようかって、大分遠慮していたんだ。知っていらっしゃると思ったもんだから」
「そんなお前。――ほかのこととはちがいますよ」
 ロンドン市内のどこかに小さい家の一軒も持っている中流階級の経済事情は益々きりつまって来ていて、ミセス・ステッソンのところが未亡人の家だからというだけでなく、市の中心からはなれたエスモンド街あたりには、まだガス燈をつかっている家が軒並だということだった。そう聞いて伸子は思いあたった。ロンドンのいろんな新聞に出ている貸室の広告には、いつも電燈《エレクトリックライト》と特別に説明がついていた。黒い絹服を上品に身につけて、泰造が立派な英語だとほめた言葉づかいのミセス・ステッソンが、淑女らしい権式で門限のことや日曜日の冷い料理のことを云いわたしながら、佐々たちが借りようとする室を見に二階へ行ったとき、その部屋にガスをつかっているということについては、ひとこともふれなかった。ミセス・ステッソンとすれば、ロンドンでは、そういうことは、借りての方からきくべきこととしているのだろう。ガス燈は、公然と、誰の目にも見えるように天井から下っているのであるから、と。
 工事費の三分の二を佐々の方で負担して、和一郎たちの室にも電燈がひかれることになった。ついでに、ラジオずきの和一郎はラジオもきけるようにした。毎晩オペラや音楽会で金を使うよりは、という和一郎の説に、多計代が賛成したのだった。

 二度めに帰って来たパリで伸子がひとりだということは、おのずからホテルの選びかたにもあらわれて、伸子は、親たちのいるペレールのアパルトマンからほど近いモンソー公園よりの小ホテルの七階に一部屋とった。「モンソー・エ・トカヴィユ」と気取ってつけたホテルの名にふさわしい入口の様子や食堂の雰囲気だった。七階の一つの部屋からは、パリのコンサヴァトアールへでも通っているらしい若い女のピアノ練習がきこえた。親たちがパリを去れば、自分もモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へかえるのだけれども、ロンドンから帰って来た伸子の心の中には、何となし新しい活気が脈うっていて、短いパリののこりの日を、思う存分暮したかった。ロンドンで、伸子はその国の言葉がいくらかでもわかるということは、旅行者にとってどれだけ重大な意味をもっているかということを、しみじみさとった。前後では三ヵ月もいることになるのに、ちゃんと新聞もよめないままにパリを去る――それでは困ると思うのだった。
 伸子は、パリへついて二日目に「モンソー・エ・トカヴィユ」に寝るためと勉強のための室をとり、その次の日、クリシーの先のアトリエに住んでいる画家の風間夫妻を訪ねて、フランス語の女教師を紹介してもらった。泰造たちとマルセーユまで同じ船にのり合わせて来た風間夫妻が、便利なフランス語の出教授をうけているそうだと泰造からきいたのだった。
 はじめてマダム・ラゴンデールというその女教師が来て、一週二回の授業のうち合わせをしてかえったあと、伸子はしばらくぼんやりして、勉強室であるその屋根裏部屋のディヴァン・ベッドに腰かけていた。質素な身なりだけれども、どこともしれずあかぬけしていて、生活のためにたたかっているパリの、中年をこした女の柔かい鋭さをたたえているマダム・ラゴンデール。彼女が、大使館関係の夫人たちも教えているということや、英語を話すことなどを、伸子は会ってはじめて知った。自分の知っている日本婦人は、みんな実に親切な人たちばかりだと力をこめて云うマダム・ラゴンデール。伸子が、新聞をよめるようになりたいと云ったら、日本の植民地政策は成功しているのに、フランスはモロッコでもアルジェリーでも失敗つづきだ、と云ったマダム・ラゴンデール。彼女と、果して、稽古がつづけて行けるだろうか。
 考えこみながら、伸子が目をやっている室の露台窓からは、せまい裏通りのむこう側の建物のてっぺんにある室内が見えていた。ホテルからの目をさけるために、あっちの露台では木箱をおいて日よけをかねて、青いつる草を窓の軒まで這い上らせてあった。その窓奥で、女の姿がちらついている。花模様の部屋着のままで、掃除でもしているかと思うとそうでもないらしく、こっちの室の内から見ている伸子の視野のうちに暫く見えなくなったり思いがけず近いところに半身をあらわしたりして、音もなく動いている。
 見られていることに心づかないで動いている人の動作には、パリという大都会のなかにある孤独のようなものが感じられる。
 伸子は立ち上って、部屋の一隅についている粗末な洗面台で手を洗いはじめた。ペレールへ帰ろうと思って。――
 ノックの音がする。伸子は、それをとなりのドアだろうと思った。ここへ人の訪ねて来ることを予想していなかった。手を洗いつづけて水道の栓をしめたとき、それを待っていたように、こんどははっきり自分の室のドアの上がノックされているのをききつけた。
 伸子は、事務的な、いくらかいかついところのある声で、
「|お入りなさい《アントレ》」
と云った。瞬間ためらうようにして、やがてドアがしずかにあいた。
 そこから出た顔をみると、
「あら」
 こわばった声を出した自分をきまりわるがりながら、伸子は、手をふいていたタオルをいそいで洗面台についているニッケル棒にかけた。
「どうしてここがおわかりになって?」
 そこに立っているのは、ホテルの男ではなかった。蜂谷良作だった。彼はぬいでいる帽子を片手にもって、
「ロンドンから帰られたってきいたもんだから」
 もう一遍伸子をたしかめるように見ながら云った。
「ペレールへよってみたら、あなたはこっちだということだったから」
「行きちがいにならなくてよかったこと。もうすこしで帰りかけていたところよ。ここは寝にかえるだけなんです、それと何かしたいときだけ」
 伸子は、こまった。マダム・ラゴンデールとは、ロンドンで買った大きい白い猿のおもちゃが枕の上に飾ってあるディヴァン・ベッドに並んでかけて話した。けれども、男のお客では、どこへかけてもらうにしても、自然なゆとりがないほど、部屋は狭かった。
 屋根裏の勾配が出ている低い天井の下に、たった一つディヴァンがあるきりの、枕の上におもちゃがマスコットのようにおかれている女の室へ、蜂谷良作もはいりかねる風だった。ドアのところに軽くもたれて立ったまま、
「吉見さんは、やっぱりロンドンからまっすぐ帰ってしまったんですか」
「あのひとは、たった三日ロンドンにいただけよ」
 あしたの朝素子がロンドンを立つという前の晩、ピカデリーを散歩していて、伸子は一つの明るいショウ・ウィンドウの中に白い猿のおもちゃを見つけた。下目をつかって、ちょっと沈みがちに考えている猿の表情は、どこか親切で賢いときの素子の顔つきに似ていた。いやしいところのない白い猿のおもちゃというのも珍しかった。伸子は半分ふざけ、半分は本気で、わたしの魔よけに、ね、と二人でそれを買ったのだった。
 伸子は、外出のために露台のガラス戸をしめながら、
「蜂谷さん、もしよかったら、またペレールへ逆もどりしましょうか」
 ほかに仕方もあるまいという風に伸子は自分のまわりを見た。
「――ここ、あんまりせまくて」
「それもいいが――」
 ドアに鍵をかける伸子の手もとを見ていて、蜂谷良作は、
「どうせ出るんなら、モンソーでも歩きませんか。あすこは秋のいい公園なんだ。去年もつた[#「つた」に傍点]が赤くなりはじめた時分、なかなかよかったですよ」
 ペレールへ戻るのも気のすすまない様子らしかった。伸子は蜂谷とつれだってホテルを出かけ、ペレールへ行くとは反対のブルヴァールを横切って、モンソー公園へはいって行った。
 セイヌ河のむこうにあるリュクサンブールの公園が、大学やラテン・クォーターに近くて、広い公園の隅々まですべての人のために開放されて、詩趣がただよっているのにくらべると、モンソー公園は、そこへ来る人々は身なりもきまっているというような、細工のこまかい庭園の味だった。優雅でメランコリックな情趣をつくり出す樹木の配置。岩の置きかた。その美しさは、どの部分をとっても、そのままでオペラの背景になる美しさだった。伸子は、その美しさを人工的すぎると感じた。
「僕のいるところがあんまりあけっぱなしの田舎だもんだから、たまにこんなところを歩くと、気がかわる」
 蜂谷は、晴れた秋日和を気もちよさそうに、帽子をぬいだまま歩いた。
「ロンドンは、どうでした」
「三百万人もの失業者って、ただごとじゃないのねえ。鈴なりだったことよ」
「鈴なりって――」
「英蘭銀行のちかくに、セント・ポールって大教会があってね。そこの日曜礼拝の合唱が有名なんです。それをきこうと思って出かけたらね、ローマかどこかにあるセント・ポールをまねしてその通りにこしらえてあるっていう正面の大階段の左右に、びっしり失業者だか浮浪者だかがつまっているんです。幾十段あるのか、堂々と見上げるような大階段の一段ごとに、すき間なく三人ぐらいずつ並んで、下から頂上まで、びっしりなの。朝日がよくさしていてね。そのまんなかのところを、白手袋はめてバイブルをもった人たちが、行儀よく、わきめもふらないで登ったり下りたりしているの。ああいう光景って何て云ったらいいんだろう――ロンドンにしきゃないわ」
 いつも労働力が不足していて、ポーランドやチェッコから男女の労働者をフランスへ移住させ、それがあまって来ると、その労働者たちを、国へ追いかえしているフランスでは見ることのできない凄じい街の表情であった。
「そんなところで、何しているんだろう?」
「ただそうしているんじゃないのかしら」
 セント・ポールのその大階段で
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