フ上に、華やかな縞の日除傘をひろげた喫茶店があった。
 そういう西《ウエスト》の色彩、声、動き、習慣のすべてはゴールスワージーの小説の舞台であり、バーナード・ショウの皮肉の本質にそういうものがあるように、自己満足があるのだった。西《ウエスト》の人たちは、ロンドンに、自分たちとまったく外見まで違うイギリス人の大群がいることを、至極当然としているらしかった。伸子は、しかし、資本主義がひき出したこれらの二つの人種をあるままに見くらべて驚歎し、やがては奥歯をかみしめるような思いにおかれた。赤坊のときからもうふけはじめて、それなり育ちがとまったような人間の大群。紫外線の不足とよくない食物のために、こまかいふきでものを出している顔色のよくない両肩の落ちた若い男女の大群集。夕刻のラッシュ・アワに、こういう男女の大群集が数万の眼をもつ無言の黒い流れとなって、地下鉄のエスカレータアに運ばれ、自働的に上ったり下ったりしている光景は、緩慢で大規模な屠殺場のようだった。
 伸子は、ケンシントンのホテルの五階に、寄宿舎の一人部屋のような狭い室をもっていた。その室の一つの窓は、ケンシントン・ガーデンの芝生を見下した。夕方になると柵のしめられるその公園は、夜じゅうしずかで、ときたま、ねぐらのなかで何かにおどろかされた鳩のつよい羽音などがきこえて来る。毎晩床につく前に、伸子はルドウィッヒ・レーンの「戦争」を数頁ずつよんでいた。ロンドンの本屋には、十年たったいまだに「戦争物《ワア・ブック》」の特別な陳列台があるのだった。
 レーンの小説は、理性的で鮮明な描写をもつ戦争反対の作品だった。近代科学の力をふるって大量に人間を殺しあっている前線で、一人の男が、機械力そのものの機械的な性格を積極的につかんで、砲弾の落ちる時間の間隔、角度を測定し、一つの砲弾穴から次の穴へと這い進んで僚友と一緒に自分の生命を救う場面を伸子は読んでいた。おそろしい破壊のただなかでも、失われることのなかったレーンの精神の沈着さ、緊密さは、その小説をよむ伸子のこころを二重に目ざめさせ、活動させた。その小説の頁から時々頭をもたげては、伸子はその日に見て来たいろいろのことについて考え、やけつくように思った。背の低い顔にふきでものを出して、腕が不均斉[#「不均斉」は底本では「不均齊」]に長いようなロンドンの人々の大群は、いつこの西にまであふれて出て来るだろうか、と。
 マクドナルドの労働党内閣は、伸子がロンドンについて間もない八月二十二日に、ランカシアの紡績労働者の大ストライキを、一二パーセントの賃銀値下げで、一ヵ月目に鎮圧した。一九二九年になってからイギリスの炭坑労働者の合理化はひどくて、一六パーセント減った労働者数で、前年よりも一三〇〇万トンよけいに採掘している状態だった。賃銀は一交替九シリング六ペンスから九シリング一ペンス半に下げられた。こういう合理化と賃下げ、失業に反対する左翼は少数者運動と云われ、第三インターナショナルの影響のもとに行動しているといつも非難されているのだった。
 ある日、伸子はペンネン通りにある一つの労働大学へ行って見た。十三番地のそこでは、「売家」と大きな広告の出ている露台のところで、二人の労働者が労働大学の看板を太い繩で歩道へつりおろしている最中だった。残務整理のために一、二脚の椅子と一つのテーブルだけをのこしてとりかたづけられた受付のところで、太ってたれた頬にそばかすのある五十がらみの男が、気落ちのした顔で伸子に閉鎖するわけを説明した。御承知のような現状で、炭坑労働者組合は三十人前後のものを教育するために年に三四千ポンドの負担にたえなくなったんです。このごろでは、ここで教育されたものがかえって政府や資本家の利益のために逆用されている。それでは労働大学をもってゆく意味がない。従って閉鎖することに決定されたんです。
 伸子は、セットルメントの仕事で世界に知られているトインビー・ホールを訪問して、そこの労働者大学の課目を帳面に写してもっていた。夏のつたが青々とした大きい葉をからましている由緒のふるい掲示板には、九月末からはじまる新学期の課目がはり出されていた。経済、文学、歴史、英・仏・独語。劇。雄弁術、音楽、美術、民族舞踊、応急看護法。一科目五シリング、と。
 この科目のどこに、労働者が自分たちの階級の意義を自覚するために必要な勉強がふくまれているだろう。トインビー・ホールの内部を参観して帰りぎわに、もう一遍掲示板を眺めたとき、伸子の不同意は反撥にまで高められた。トインビー・ホールでは、労働者学生の食堂は天井の低い、窓が床に近いところに切られている薄暗い中二階のなかだった。うす暗い中に、むき出しの木のテーブルとベンチがあって、錫《ティン》の茶のみコップがずらりと並んでいた。どこか中世の職人部屋の感じがただよい、そこを見てから、しばらく廊下を行って伸子が案内された指導者たちの食堂は、あんまり学生の食堂との相違がはげしくて伸子をおどろかせた。そこは天井の高い柱を見せた造りの室だった。真白いテーブル・クローズのかかった食卓の上には銀色にかがやく砂糖壺だの大小のスプーンがきちんと並んでいた。壁にはいくつもの記念写真が飾られている。婦人の案内者が重々しく発音して「|指導者たち《リーダース》」と云っているのは、どういう人たちなのだろう――云いかえれば、一方に労働者たちのためのああいう食堂をおきながら、平気でこの真白いクロースのかかったテーブルに向う無神経な指導者というのは、どういう種類のひとたちなのだろう。伸子は、そのことを質問した。案内の婦人は、その人たちは、オックスフォード大学とケイムブリッジ大学から来ます、とだけ答えた。伸子の口辺にちらりとほほ笑みが走った。旅行案内書《ベデカ》にも、それは書かれています。彼らは、教授ですかそれとも学生ですか。婦人の案内者は、白いブラウスの胸をはり出すようにして、ゆっくり、彼らの多くは学生たちです、と答えた。
 トインビー・ホールから帰る道々、伸子は胸に迫る鮮やかさと感動とをもって、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学の円屋根の下に記されている字を思い出した。――すべての働く者に学問を。――この一句のうちに、千万言にまさる真実があった。これこそ人類に新しくかちとられるべき美ではないだろうか。すべての働くものに学問を――真実の科学を。いつわりなく社会の現実を追求して、それを発展させる力をもつ学問を。――
 売家に出された労働学校の残務整理をして、ふとった悲しそうな顔を頬杖に支えている男に、伸子はトインビー・ホールを訪問したと話した。そして、あなたのところでも、もしあすこと同じような学科を教育していたのなら、卒業生たちがマクドナルド政府に便利な召使になるのは明瞭だと思います。トインビー・ホールの二種類の食堂がそれを語っています、と云った。肥った男は眠たそうにしていた瞼をあげて、伸子の顔を見直した。あなたは、その二つの食堂を見ましたか? 見ました。それで――あなたの気に入らなかったですか? 伸子は、ああいうやりかたは、大戦前まではある意味があったのでしょう。でも、それでは余り古いです、と云った。肥った男は、二つの指で下唇をつまむようにしてしばらく黙って、考えこんでいた。やがて、正直そうなふとった顔に一層悲しそうな表情を浮べながら、多分それがほんとうでしょう、と立ち上り、伸子とつれ立って重い足どりで看板おろしをしている入口へ出た。歩き出しながら、その男は同じような沈んだ声で、あなたはコンミュニストですか、と質問した。そんなしっかりしたものに思いちがいされたことは意外で、ノー、と答える伸子の声に力がはいった。
 伸子のいるケンシントン街のホテルでは、「デーリー・ヘラルド」が労働党の機関紙だというので配達しなかった。「ワーカアス・ライフ」は、下町のスタンドで売っているだけだった。「ワーカアス・ライフ」は日刊紙になろうとして、ドイツの労働者はローテ・ファーネのために何をしたか、というアッピールをのせていた。
 日曜日の午後、人の出盛る時刻にハイド・パークを歩くと、散歩道に沿った樫の大木の下に台をおいて、いろいろの男が演説していた。互の声を邪魔しないだけの距離をおいて、一人一人が立って話している台に、彼が属している団体や政党の名が書きつけられている。散歩している人々は、ぞろぞろと歩きながら、見なれた町のショウ・ウィンドウでも見るように、ここに独立労働党。次に自由思想家《フリー・シンカア》。アナーキスト。つづいて協同組合主義者《トレード・ユニオニスト》。共産党。クリスチャン・サイエンスと演説の断片を耳にはさんで歩いていた。もし、何かの言葉に心をひかれて止ってきくなら、それは、どの演説を、どれだけ聴こうと、質問しようと、討論しようと自由だった。演説者の並んでいる散歩道の前はかなりひろい草原で、そこの草の上には、ねころがって日曜を楽しんでいる男女や、かけまわっている子供の群がある。
 ハイド・パークのここらを歩いたり、草の上にねころがったりしている人たちは、身なりを見ても、ヴィクトーリア公園に群れて乳母車を押しながらねり歩いている人々より、いくぶん生活のましな部類の人たちだった。労働者の家族にしても、就業している労働者たちの一家が多いことはすぐわかった。草原に体をのばしている男女は、一週に一度の大気と日光とにあますところなくふれようとして、特に女が、靴をぬいだ両脚をのばしている姿が、あちらこちらで目に入った。人々は、のんきに日光にあたっているか、自分たちの間で喋ったり笑ったりしていて、樹の下の、馴れっこになっている演説者に対して関心はうすいようだった。
 広大な地域をしめているハイド・パークの大衆的なこうした風景と、身なりのきれいな人々のとりすまして、散策しているケンシントン・ガーデンのあたりとは、同じ日曜日の午後でも別天地だった。
 泰造も、ロンドンへ来てからは、建築家として実務的ないそがしい日を送っていた。日本へ帰ればすぐとりかからなければならない大規模な大学校舎と病院建築の予定があった。イギリスの王立美術院の名誉会員である便宜を利用して泰造は、時にはノッティンガムまで出かけて大学や病院の視察に歩いていた。
 和一郎夫婦をミセス・ステッソンのところへ落つけた今は、多計代も心に軽やかなところができたらしくて、ケンシントン・ガーデンの芝生の上で集って来る雀にパン屑をなげてやりながら、ゆっくり茶の時間をすごしたり、つや子をつれてテート画廊を見に出かけたりしていた。大使館関係の夫人たちを訪問したりもしている。ロンドンでは、言葉がわかるということが、泰造をくつろがせ、多計代の神経をも楽にした。しかし一行のなかでつや子の立場が宙ぶらりんなことは、パリにいたときとちっともかわらなかった。ロンドンのホテルでも、つや子の寝台は夫婦の寝室にもちこまれていた。イギリスのいわゆるちゃんとした[#「ちゃんとした」に傍点]家庭のしきたりからみれば、つや子ぐらいの少女に家庭教師をつれずに旅行している佐々の一家は、いわば泊っているホテルの格にあわないとも云えるものだった。泰造や多計代は、そういうことに頓着していなかった。
 伸子は或る晩八時すぎてから、つや子をつれて、トラファルガー広場から出発するトマス・クックの東区《イースト・エンド》見物バスにのりこんだ。トマス・クックはロンドンの観光ルートを独占していて、大戦まではロンドン市の恥とされていた東区の貧窮の夜の光景までを、夜のロンドン見物に変化を与えるスリルの一つとしてさし加えた。黄色と藍の塗料のきれいな大型バスは、車内に電燈をきらめかせながらテームズ河の河底を貫く長い淋しいトンネルをぬけて、追剥《おいはぎ》の出そうなロンドン・ドック附近を通り、ホワイト・チャペルの周辺の曲りくねった道へはいって行った。バスの行く道すじは、ジャック・ロンドンが「奈落の人々」の中に辿った道順とほとんどちがわなかった。止まったバスのまわりに集
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