ヘ困る連中が、いたるところで政権をもっているんだから」
 一九二七年に出来た十字火団《クロア・ド・フウ》は、いわば中産階級の組織で、十字火勲章や名誉勲章をもらった第一次大戦当時の退役士官、下士官が中心なのだそうだった。戦争で彼らを犠牲としたという理由で資本家と資本家の共和制に反対し、同時に共産主義に反対している。市民同盟《ユニオン・シヴィック》は、補助警官、スキャッブとして、政府から重宝がられている。五十人余りがひとかたまりの突撃隊となっていて、パリでも労働者のデモンストレーションがつよくなったりすると、すぐ自動車で千人は動員される。蜂谷良作は、露台の夜目にもわかる深い横じわを額にきざんで、
「何しろ、クロア・ド・フウなんか飛行機を三十台も持っているんだからな。トラック、オートバイ、軽機関銃なんかは、どの位もっているか」
 これには参るという風に頭をふった。
「フランスのファシスト団体は、そういう点では実に整備されているんだな」
 体をかたくするような気持できいていた伸子は、しばらくすると、小さい声をたてて笑いだした。
「蜂谷さんたら――おかしい。フランスのファシズムを非難しながら、感歎しているみたいな云いかたをなさるんだもの」
「同感だね」
 素子が、タバコにむせたようにしながら、しわっがれた声で云った。
「蜂谷さん、ミイラ取りがミイラになるってことがありますよ。そんなの御免だな」
「そういうわけじゃない。僕は、マルクシストたちが、ひとくちに反動だ、ファシストだって片づけるだけで、彼らの必死な実力を知ろうとしないのは間違っていると思うんだ。第一次大戦のあと、ファシズムがおこって来ているには、それだけの必然があるんだから、そこを分析する勇気がなければいくら『自由のフランス』でだって左翼は敗北するね」
「そりゃそうでしょう。しかし大戦後の必然ってことを云えば、ソヴェト同盟が生れた必然、世界に社会主義がたかまって来る必然が一方にある。少くともわたしたちはね、その二つのもののたたかいを、犬のかみ合いを見物しているようには見ていないんです」
「犬のかみ合いは、ひどい」
「だって、ただ、どっちがつよいか、どっちが勝つかなんていうところからだけ見ているなら、結局、闘犬見物みたいなもんですよ。――闘犬にだって、ひいき[#「ひいき」に傍点]はあるでしょう、かたせたい側っていうものが……」
 男の友人たちとの間で話が議論めいて来ると、ぐいぐいつっこんでゆくのは、いつも素子だった。伸子は、蜂谷のいうことのうちに感じとられる真実と、そこにまじって現れている彼の傍観的な立場とを、だまって考えあわせるのだった。
「さあ、そろそろ、ひっこみましょうか」
 そう云って自分のかけていた椅子を部屋のなかへもちこむ素子に、つづいて椅子を運びながら蜂谷は、
「それにしても、あなたがたは、かわったもんだなあ」
と云った。素子は、そういう批評が不満足ではないらしく、その感情を、からかうような眼つきの中に示して、
「あなたはどうなんです」
 蜂谷は、それに答えなかった。素子に案内されて、向いの部屋へ去るとき、
「あなたがたが、ロンドンから帰って来たらいっぺん是非サン・ドニへ行って見ましょう」
 二人の女のどちらへともなく云った。
「あすこの市長は去年の選挙でドリオという共産党員になって、七月と十一月の革命記念日にはサン・ドニの市庁《オテル・ド・ウィユ》に赤旗があがりますよ」

 翌朝、伸子と素子とが起きたとき、蜂谷良作は、向いの室で、ちゃんと身仕度をすまして待っていた。朝のコーヒーを三人でのんで、蜂谷は帰って行った。伸子の手帳に彼のクラマールの住所を書きのこして。
 

    第二章

        一

 ロンドンにいた四十日の間に、ヨーロッパの夏が秋の季節にうつって行ったばかりでなく、伸子の身のまわりの事情もあれやこれやと変った。
 八月十三日の朝、アミアンの飛行場から飛びたった真白い旅客機は、二十四人の客をのせて、パリから北へとんで、カレーとドーヴァの間で英仏海峡を越した。海峡の上はひどい霧だった。気流もわるかった。真白い飛行機は灰色の濃い霧の渦の中で、エレヴェータァが三階から地階まで落ちるときのような気味わるい無抵抗さで沈み、次の瞬間には、同じ高さを浮き上った。ピッチングのひどいとき船にのっているよりも、はるかにわるかった。
 素子は伸子より早く酔いはじめて、青黄色い顔色になっては、そなえつけの紙袋に顔をつっこんだ。伸子の酔いかたは素子とちがって、ちっとも嘔気はなく、ただ頭が金のたが[#「たが」に傍点]でしめつけられるようになって、段々夢中になって行った。こわばって、きしんで、動かなくなったように感じられる眼玉で、伸子は、濃い霧のきれめから憂鬱な藍色に波だっているドーヴァ海峡の水の色を眺めた。
 イギリスの上空にはいったとたん、飛行機の下に見える草木の色が変った。フランスの、うすい灰色や真珠色とまじって軽快に爽やかな自然の緑は、イギリスの重厚に黒ずんだ緑にかわった。それはイギリスの風景画の基調だった。時間を倹約するつもりもあって伸子と素子とは、飛行機でロンドンへ向ったのだったが、午後おそく佐々の一行がとまっているケンシントン街のホテルへたどりついたときの二人は、帳場から電話をしたきり、挨拶にゆく力もなくて、晩餐の時刻まで寝こんでしまった。
 素子は、ほんとにロンドンに三日いただけで、パリ、ベルリンを通過してモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰った。伸子が佐々の家族にかこまれているということで、日ごろ伸子についてもっている関心から素子は自由になったというわけだったろうか。ロンドンへ行けば、素子の気分もかわるかもしれないと思った伸子の想像は、あたらなかった。わたしにはパリにいるよりつまらない。第一、かたくるしいや。二日目に素子はそう言った。そして、四日目の朝、ヴィクトーリア停車場から立ってしまった。伸子が、いつモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰るかということも、はっきりとはうち合わせずに。
 和一郎と小枝は、伸子たちより二週間おくれてロンドンへ来た。二人は、親たちや伸子のいるケンシントンのホテルには二晩とまったきりで、ミセス・ステッソンの部屋にうつった。ミスタ・ステッソンというひとは、存命中、長崎の領事だったということで、大戦前の日本の、地方の小都市で、たてまつられていた外国夫人らしい権式ぶりだった。伸子をつれて、ミセス・ステッソンのところで部屋を見たり、黒ずくめの絹服をつけたその未亡人と話したりしての帰途、泰造は、
「まあ、和一郎たちには、あれもいいだろう」
と言った。ミセス・ステッソンは、泰造にまで平日は十一時という門限のことや、日曜日の食事は料理女を休ませるから|冷たい皿《コールド・ディッシュ》だと心得てくれ、と言った。
「語学の稽古にはいい。あの夫人はいい英語をはなしていたよ。伸子にわかったかい?」
 泰造としては、ロンドンで昔、自分が下宿していたミセス・レイマンの住居をさがしだして、そこへ和一郎夫婦をおきたかった。パリにいたころ、伸子は泰造のそういうこころづもりをきいた。ところがロンドンへ来て、いまミセス・レイマンとその息子が住んでいるところをしらべると、泰造がいたころからほぼ四分の一世紀をすぎたイギリス社会の推移は、このつましい一家の生計を、泰造が下宿していた時分とはくらべものにならず落魄させていることがわかった。変らないのは、ミセス・レイマンがGペンを風雅につかって書く手紙の文字と、彼女の温い親切な生れつきだけだった。ミセス・レイマンは、礼儀にかなった服装がなくて失礼だからと泰造夫婦の晩餐の招待をことわってよこした。若い和一郎夫婦が、「彼らの前途多幸《プロスペラス》な未来」のために、イギリス生活を学ぶ目的のためには、残念なことにわたしの家庭はふさわしい環境でありません。大戦後、わたしたちの生活は、もう二度ともとに戻ることの不可能な変化をうけました。イギリスの多くの中流階級の人々のように。風雅な書体のレイマン夫人の手紙は、そういう風な現実を告げていた。
 ミセス・ステッソンが、下宿人をおきはじめたのも大戦後のことだった。ローラとよばれる二十六七の娘は、チャーリング・クロスの近くで友達と服飾店を経営していた。
 ミセス・レイマンの手紙にある和一郎夫婦の「前途多幸《プロスペラス》な未来」という文句を、伸子は、言葉に出して誰にいうこともできない懐疑をもって見つめた。ミセス・レイマンにとって懐古的な思いをそそるばかりのプロスペラスという言葉、戦後、ひとしお激しい資本主義経済の波に追いまくられて、ロンドン市内の生活を支えきれず、郊外の一隅へなげだされたささやかな中流の一家。あからさまに言ってしまえば、伸子は、和一郎の代になってからの佐々の家の未来に、ミセス・レイマンが経た生活の推移と大差ない過程を予感しているのだった。
 泰造と多計代とはミセス・レイマンとその息子のジャック・レイマンを、少し改まった午後の茶に招いた。七十歳ちかい母親であるミセス・レイマンと三十歳になったばかりというジャックの上に、大戦を境とするロンドンの中流人の経済的な世代のちがいが、あんまりくっきり描き出されていて、伸子は苦しいようだった。ミセス・レイマンはその老年にかかわらず、レースの訪問着はややつかれているにかかわらず、いくらか頬の艷があせているだけで、イギリス婦人らしいしっかりとした骨格と血色を失っていなかった。眼づかいや身ごなしに清潔な気品がのこっていた。
 ジャックはおそらく実業学校を卒業しただけで、商会の店員になったらしく、彼の体格は、年とった母より、ずっとわるかった。伸子が、二階づくりのバスにのって、商業地域《シティ》から、奥にひろがるロンドンの東区を歩きまわるとき、そこで出会って来る数万の店員《クラーク》たちの一人であった。両肩がすぼんで、すこし猫背で、くすんだ顔色の冴えることのない若者たち。
 日曜日の午後、東《イースト》の大公園ヴィクトーリア・パークのせまい池は、そういう若者たちが、男同士、または女の友達をのせて漕ぎまわるボートで、こみあっていた。
 その池にそって、散歩道の上には、あとからあとから家族づれの散歩者の列がつづいた。彼らの間には、何とどっさりの乳母車がおされて行っただろう。若い母親が夫とつれだって押してゆくのもあったけれど、七つから十二三までのお下髪の女の児が押してゆくのが多かった。二三人の、もっと小さい子供たちは姉娘が押してゆく乳母車のまわりや母親のスカートのまわりにたかって歩いてゆく。散歩行列の中にいるおびただしい子供たちの日曜日用の服は、どの子の服もきつく畳まれていた折目がついていて小さい体から浮くようにこわばっていた。その折目は、いつもはどんなに注意ぶかく、その半ズボン服がしまいこまれているかということを告げた。その人々の生活には、子供用の服ダンスなどというものはないこと。畳んだ服はトランクに入れられて、兄から弟へ、姉から妹へとゆずられていることなどを語るのだった。インディアン・サマアとよばれる夏の終りの明るく暑い日曜日の午後でも、ヴィクトーリア公園の明るさには払いきれない人生のかげりと、隈と、たまにしか入浴させられない子供たちの体の匂いがあった。そこの散歩道をねり歩いている大人や子供の鼻のまわりや口のすみには、いくらシャボンで洗ってもおちない、うすぐろさがあるように。
 バスで三十分も乗ってゆくと、伸子の目には全くちがった光景が展開された。笛をふいているピイタア・パンの銅像のあるハイド・パークの一隅から、のどかそうにボートの浮んでいるテームズ河がひろびろと見えた。そのあたりには、英国の血色と言われている、あざやかな顔色と金髪をもってすらりと背の高い若い男女の夏衣裳だの、桃色や白の子供服が楽しそうに動いていた。大公園の中でも伸子たちのいるホテルに近い一廓はケンシントン公園《ガーデン》とよばれて、きれいな芝生
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