ウで、伸子は、
「フランスに、本気で研究するような新しい問題があるのかしら」
とつぶやいた。
 素子の顔に、面白そうな皮肉な輝きがうかんだ。
「そりゃ蜂谷さんたちは学者[#「学者」に傍点]なんだから、うっかりソヴェト同盟へなんか行けないさ」
 学者というところに、あるアクセントをつけて素子は云った。
「――お勤め先の関係で?」
「そんなことじゃないさ――ねえ、そうでしょう?」
 正体をかくしたまま、鋭いものをふくんで迫る素子の語調を、蜂谷は少し不愉快そうにかわした。
「行けないと、きまったもんでもないさ」
「そりゃそうでしょうがね――蜂谷さんは今でも、中共も意味があり、蒋介石にも役割があるっていう論法ですか」
 そういう風に質問が展開したのは伸子に思いがけなかった。同様に蜂谷としても予想しなかったらしく、
「――いやによくおぼえているんだな」
 てれたようだった。
「少し失礼な云いかたかもしれないが、あなたがた学者とか教授とかいう人たちは、思ったより、ほんとの知識欲ってものはうすいもんなんですね。外国へ来て見て、留学中と称する諸先生にあって、しみじみそう思うなあ。みんな、これまでの自分のもちものに、ちょいと何か無難な新知識をつけ足すだけで、本当に人生観が新しくなるとか、これまでの考えかたをすっかり変えなけりゃならないかもしれないような冒険は、こっそりさけている。みんなのソヴェトに対する態度でよくわかる――要するに影響されるのが、こわいんですね」
 蜂谷は、つっこんでゆく素子の言葉を、だまって終りまできいている。そして素子が云い終ると、それが彼の癖の、伏目になってきいていた眼をあげて、ゆっくり考えを辿るように、
「吉見君のいう心理もたしかに、どっかにはあるだろうな」
 浅黒い皮膚の下に、微かな赧らみがのぼった。
「しかし、少くとも僕はそれだけじゃないんだ。――どうもひとことに説明しにくいが――。これは、一つの例だがね、コミンテルンの第六回大会の決議では、国際情勢の特徴を帝国主義戦争とファシズムの危険においている。僕もそれは正しいと思う。ところがね、ここの共産党だのマルクシストって連中は、かんじんのフランス自体の帝国主義の実状やファシズムの実力については、案外|呑気《のんき》なんだな。僕は、去年からかなりいろんな人と話して見ているが、概してそうなんだ。フランス人のもっている自由の伝統はドイツとはちがう。イタリー人ともちがう。はっきりそう云うんだ。一種の誇りがあるんだな。そのために、かえって、ここの共産党は社会民主主義者と自分たちの区別をはっきりしないし、右翼的になったりウルトラじみたりして、去年のフランス問題では『リュマニテ』も批判をうけたでしょう。僕に忌憚《きたん》なく云わせれば、吉見君の云った中国革命の進行についての見かただってもね、中共の側にだけたって支持することは、むしろ、我々のようなものにはやさしいと思う。――そうじゃないのかな――どっちみち、我々の時代は、資本主義社会を批判しないじゃいられなくなっているんだから。いつだって、どこの国においてだって、共産主義の理論は明晰さ。現実の理性に立って云っているんだから明瞭なわけだ。むずかしいしそれだけ興味がふかいのは、その明晰な理性が、乱麻《らんま》のような帝国主義の日々の目前の利害と延命のための権謀術数の間をぬって、どう運転され、たたかわれ、勝利を占めてゆくかという、現実のいきさつだと思うんだ。これに異議はないだろうと思うんだが……。さし当り、僕はフランス帝国主義のはらわた[#「はらわた」に傍点]にもぐりこんで、見ていてやるつもりだ。フランスの金融資本というやつはね、昔からソヴェトにだって中国にだって、見かけよりずっと深い因縁をもっているんだ」
 蜂谷は、ウィーンであった黒川隆三のように、口が達者でデマゴギストかと思うような反ソ目的をもった社会民主主義論者でもないし、ベルリンの津山進治郎のように、現代のコンツェルンを、「わかれてすすみ合してうつモルトケの戦法」と云って毒ガスの研究をしている軍国主義者でもない。死んだ保のように、善いことをするためには絶対に善い方法がとられるべきだ、と、おさなくひよわな精神の力をふりしぼって絶対の正しさを求めた若者でもない。社会主義へという一つの方向へ啓蒙しようとするばかりの論議よりも、より深い複雑なところで蜂谷良作が現実を捉えようとしたがっていることは、伸子を反撥させることではなかった。伸子自身も、ものごとの、しん[#「しん」に傍点]のしん[#「しん」に傍点]から知りたがる方なのだったから。そうして知ったものこそ、つよいと信じているのだったから。
 話しこんでいた蜂谷良作は、腕時計をのぞいて、
「――こんな時間なんだろうか」
 素子の時計と見くらべた。
「そりゃそうでしょう、芝居がはねたのが何しろ十一時すぎだったんだから」
 サン・ミッシェルの大通りはまだ宵のくちの賑やかさで、カフェーの客も女づれが目立って入れかわり立ちかわりしている。
「よわったな」
 蜂谷は、こまった額に太い横じわを現した。
「クラマールへ行く電車が一時までなんだ」
「どこなんです? そのクラマールって」
「ヴェルサイユ門から四十分ばかりのところなんだけれども――よわったなあ」
 そのよわりかたは、郊外電車にのりそこなうかもしれないことよりも、よそで泊る用意なんか全くしていない蜂谷の財布のなかの問題のように、伸子には思えた。
「ポート・ド・ヴェルサイユなら、わたしたちのところからじきじゃないのかしら。こうしたらどう? タクシーでいそいで行って見ましょうよ。それで、間にあえばいいし、間に合わなければ又そのときのことで、さ」
「そうしよう!」
 三人はカフェーを出るなりタクシーをつかまえた。行くさきをいそいで言葉すくない三人をのせ、タクシーは、明るさとざわめきにみたされているサン・ミッシェルの大通から寂しいリュクサンブール公園の裏通へはいって、ヴォージラールの長い通りをひとすじにヴェルサイユ門まで走った。
 素子がタクシーに支払いをしている間に、蜂谷良作は小走りにかけて、そこの広場に一台とまっていた電車に近づいて行った。
「間にあったんだろうか」
「どうでしょう」
 あとからそっちへゆく伸子と素子とに向って、駄目、駄目と横に手をふって見せながら蜂谷良作はもどって来た。
「出ちゃったんですか」
「いま出ちゃったんだそうです――よわったな」
 ポート・ド・ヴェルサイユからクラマールの住居までの距離がどのくらいあるのか、具体的に知らない伸子と素子とは、駒沢まで帰る玉川電車が出てしまったあとの渋谷で困ったことのある自分たちの心もちに翻訳して、蜂谷の当惑を同情した。
「タクシーで行っちゃ駄目ですか」
「遠すぎてね。パリのタクシーは、市内はやすいが、一歩郊外へ出るとメーターが倍ずつまわるから、とてもやりきれたもんじゃない」
「そんなくらいなら、わたしたちのいるガリックへ来て泊った方がよっぽどやす上りだ。――そうしちゃどうです。どんな部屋だって一晩ぐらい、かまわないんでしょう?」
 三人は、こんどはゆっくりヴォージラールの通りを逆もどりしてホテル・ガリックのドアをはいった。ここでもカフェーの方はまだあいている。帳場で蜂谷が部屋の交渉をはじめた。
「部屋はないんだそうだ」
「部屋がない?」
 そんなはずがあるもんかというおもざしで、素子が番頭を見た。頭のうすく禿げた番頭は、クリーム色のシャツの前に緑色のネクタイをたらして、とがめるように彼を見る素子に向って、両手を左右にひらいて肩をすくめてみせた。
「いくらかほしいんじゃない?」
 伸子がその様子を見て素子にささやいた。
 蜂谷は、帳場にもたれるようにして、
「アロール・ムシュウ」
と、また新しく談判をはじめた。
「うそじゃないらしいなあ、きょうは土曜日だから、っていうんだ」
「あ、そうか! そこまで気がつかなかった」
 土曜日の夜は、いつも、目立たないながら一夜どまりの男女の組が多くて、大きくもないホテルの部屋部屋はふさがるのだった。
 蜂谷は、ぬいでいるソフトを左手にさげて、ハンカチーフで額をふきながら、思案している。伸子も素子も帳場のわきにたたずんだままこまった。もともと、ピスカトールの芝居を観に蜂谷が一緒に行ったのは、伸子たちへのつき合いだった。場末の劇場だし、案内所で扱う切符ではないからと、蜂谷が切符の面倒も見てくれたのだった。
 いよいよ、ほかに思案がつかないなら、ふた部屋もっている女二人がかたまって、素子の室をあけて蜂谷が泊れるようにしたらどうなのだろう。伸子はそう思いながらだまって、素子が何とか発案するのを待った。伸子と素子との生活のなかで、こんやのような場合には一種のデリケートさがあった。伸子が先立って、蜂谷がとまれるようにあっせんしたりすると、それは何となし単純なことでなく素子に映る危険があって、伸子は用心ぶかくなっているのだった。
 やがて、素子が決心したように、
「ぶこちゃん、われわれがかたまって、わたしの方をあけるか」
 やっぱり同じ考えにおちた。
「とんだ迷惑をかけて、すまないなあ」
と云いながら、蜂谷は七階まで二人の女のあとについてのぼった。
「ともかく、ちょいとこっちで休みましょう。それから、あなたの落つき場をちゃんとするから」
 伸子の部屋にはいった。屋根裏部屋には、宵じゅうしめこまれていた夏の夜の暑気がこもっている。伸子は、露台のガラス戸をいっぱいにあけた。そして椅子を露台の上へもち出した。土曜日と日曜日の晩だけは夜どおし灯っているエッフェル塔のイルミネーションが、遠い空の中で今夜もシトロエン・シトロエン・6シリンダー・6・6と休みなくまたたいている。
 蜂谷良作は、露台の欄干に肱をかけ、遠くエッフェル塔をたてに走っては光っている字を眺めた。
「久しぶりだなあ、パリの夜の景色――やっぱり、いいな」
「クラマールって、そんなに淋しいところ?」
「まわりが田舎ですからね。こんな都会の夜の気分は全然ないですよ。その代り歩きまわるにはいいけれども」
 廊下ごしの自分の部屋に行っていた素子が、ねまきや枕や洗面道具などを腕にかかえて、伸子の方へ運んで来た。蜂谷が椅子から立ち上った。
「何か手伝いましょうか」
「いや、もうこれでいいんです」
 素子も露台のところへ出て来て腰をおろした。
「ここからの街の風景は昼間も面白いですよ、ペレールあたりなんかより、ずっと趣がふかい。生活があふれているからね」
「そりゃそうだわ、あっちで見えるのはブルヴァールの並木だけですもの」
 蜂谷良作はペレールへ佐々泰造を訪ねて、アパルトマンも知っていた。彼がパリにいることが伸子と素子にわかったのも、泰造が偶然知人のところでそこに来合わせていた蜂谷良作にあって、話が出たからのことなのだった。
 段々ひえて来る夜ふけの空の下で、蜂谷良作は伸子と素子とに、くも[#「くも」に傍点]の巣のようにいりくんで互に連関しながらはりめぐらされているフランスの国際金融資本の動きと、それによって養われている十字火団《クロア・ド・フウ》のようなフランスのファシスト団体の話をした。その中核であるパリ・オランダ銀行の総裁のフイナリはアメリカのスタンダード石油のフランス代表であり、ドイツの銀行、電気、化学工業トラストに関係していて、大戦中はドイツから資本の出ているノルウェイ窒素の重役としてドイツへ硫酸ソーダを供給していたので、大戦後はイタリーへ亡命していた。
「それが、いつの間にかかえって来て、総裁になっている。パンルヴェ内閣にモロッコ戦争をやらせたのは、この男だ。ウェイガン将軍だとか、リオーテだとか、フランスの参謀本部はかいらい[#「かいらい」に傍点]だからね。イギリスの参謀本部だって、日本の三井だってスイスからニュージーランドの軍需資本家までがフランスのシュネーデルと結びついている。軍縮会議がまとまらないのは当然なわけさ。戦争の危険がほんとになくなられて
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