゚かみ[#「こめかみ」に傍点]を揉みながら、
「どうだい、吉見さんは来ますか?」
「迎えに来てくれるんですって、よかったわ」
「そりゃよかった。一人で帰るつもりなのかと思っていたところだ」
泰造の様子を眺めていた伸子は、立って父の椅子のうしろにまわって行った。
「お父さま、わたし頭をもむのがうまいのよ、すこし揉みましょう」
泰造の頭は、左右の角を円く充実してよく発達していた。脳天のところが、よくみのった実の丈夫な殼のようにしまって低くなっている。泰造のその頭は、マッサージしている伸子の指さきに今夜はのぼせ[#「のぼせ」に傍点]をつたえ、伸子が子供のときからかぎ馴れているオー・ド・キニーヌの匂いがする。あったかくて、重くて大きい父の頭にさわるのは、何と久しぶりだろう。伸子は、麻のハンカチーフごしに、父のはげた頭へ自分の頬をふれた。
「お父様も、御苦労さま」
「うちの連中にも困ったもんだ。みんながてんでに勝手なことばかり云っている」
父のうしろに立っていて、その頭をマッサージしていることは、伸子を口のききやすい位置においた。泰造にしても同じ工合らしかった。
「和一郎にも困る」
それは体裁をつくろったところのない云いかたであった。
「――ねえ、お父様、わたしには分らないことがあるのよ。和一郎さんが、うんと不平なの、御存じ? どうして、ああなんでしょう。あんなのに、つれていらっしゃらなくたってよかったのじゃないのかしら。――二人ぎりでいらしって――」
「そこだよ、おれの気持が誰一人わかっていないんだ。多計代はいよいよ決心して、どうしても死ぬまでに一度外国を見ておきたいというし、医者は健康を保障できないというし、おれも考えた。多計代にすれば保を失ったことは、将来の希望を奪われたと同じなんだから、おれもこの際、思いきって多計代の最後の希望を実現してやろうときめたわけだ。何しろ医者がそういうんだから、出かけるについては、万一のときの覚悟がいる。何事かあるとき、多計代は子供たちの顔を見たがるにきまっている。そのとき悔んでも意味をなさないから、こんどは、あらゆる犠牲をしのんで、みんな連れて来たんだ」
つや子までがこんどの一行に加えられ、しかもつや子自身のためにはプランらしいものの立てられていないわけも、それで伸子に得心がいった。
「さもなければ、こんどのような旅行は、計画そのものからして無謀さ。しかし、こういうことは二度とあるわけのものでもなし、おれとしてベストをつくすことにしたわけだ」
母の体の調子がわるくて、上陸することのできなかったナポリの港で、停泊している船のデッキから夜のナポリの街の美しい灯のきらめきを眺めながら、父が涙をこぼしていた、という小枝の話は、それをきいたとき、伸子の心をかきみだした。そのような父の感傷の動機も、今夜の話で、思いやられるところがあった。父はこんどの旅行で、どんなに多計代を主にして行動する決心でいるか、そのためにどれほど自分の自由をためているか。それにくらべればよそよそしさのある心でいる自分を伸子はすまなく感じた。
でも、それほどの泰造の心づくしは、それなり多計代にそっくり通じているのだろうか。和一郎が、納得していないというのだろうか。泰造の頭をマッサージしている伸子の手先が思わずとまった。
「お父様、そのお気持を和一郎さんたちに、ちゃんとお話になったことがあるの?」
泰造は咳ばらいした。
「――和一郎にだって、十分わかっているはずだ」
しかし、それは確信のない答えかただった。
伸子は、またマッサージをつづけた。夜更けの沈黙が、やや古風な家具調度の明るく照らし出されたアパルトマンの客室にみちた。その沈黙をつたわって、ペレール広場で路面の停車場へ出る地下電車《メトロ》の轟音が遠くから響いて来る。
「お父様、こんどの旅行について、いくらか陶器を手離しになった?」
「ああ、かなり売ったよ」
「どれを?」
「『せきれい[#「せきれい」に傍点]』と『牡丹』が主なものだ。――あとはお前知るまい」
どっちも十客揃いの中皿と大皿で、その図がらから『せきれい』『牡丹』とよばれている鍋島の逸品であった。泰造の蒐集のなかでは、参考品としての価値以上に好事家《こうずか》の間に評価されていた品々だった。
「あんなものも、いずれ保の役にでも立つだろうと思って持っていたようなもんなんだから、まあ、いいさ」
そういう父の頭をだまってマッサージしながら、伸子は涙ぐんだ。年とって保に死なれた親たち夫婦のこころもちには、まだ人生の前方ばかりを見はっている伸子や、生活を保証された長男の若夫婦である和一郎たちに、うかがいしれない微妙な動機がこもっている。嘱望していた次男の保のためにと心がけていたものを、おそらくは多計代が主唱して、自分たち夫婦で使ってしまうことにしたのだ。
伸子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で手紙をうけとったときから腑に落ちなかった佐々の家族の旅行の本質を、はじめてつかむことができるように感じた。多計代が、保の分骨を錦につつんで、まるでそこに一人の人が存在しているようにつれて歩き、ホテルの室でもアパルトマンでも特別な置場所を与えていることも、親たち夫婦のこんどの旅行についてのある心持の表現かもしれなかった――保にもパリやロンドンを見せてやっているのだという。――
年をとってから秘蔵の次男に自殺されるというような深い落胆を経験した夫婦の、親として哀切な思いに、幾晩か語りあかして出て来た旅であろうのに、その一行が親も子もてんでんばらばらな性格の向きのまま、それだけは家族に共通な互の強情さでもって、揉めながら日をすごしているのも、佐々の家らしい現実であった。哀傷は、多計代のこころを苦しめ、乾きあがらせ、病的に過敏にしているけれども、それをしっとりと和らげ無慾とする作用となってはいない。どうせ、やがてみんなあのひとのものになるのに、と和一郎の金の話にふれて云ったとき、多計代の声には一つの響があった。
伸子は、そろそろ父の頭のマッサージを終りかけた。
「結局和一郎さんたちはどういうことになるの? 一緒につれておかえりになるつもり?」
「あの連中は、暫くのこして見ようと思う。幸、多計代の健康が思ったよりいいからね」
「ここへ?」
「おれの考えではイギリスの方がいいと思う。――伸子はどうする」
「わたし?」
思いもかけない自然さで質問が大飛躍したのに伸子はあわて、上気した。伸子は一所懸命なひと息の云いかたで答えた。
「わたしは、お父様たちがこっちにいらっしゃる間はこっちにいて、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰ります」
これは、ふた月まえにモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を出て来るときから、この質問がおこったときのただ一つの答えとして、伸子の心にかたくしまわれていた言葉だった。
泰造は、かたずをのんだような伸子の語調に格別注意をはらわず、
「やっぱりモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]がいいかい?」
あっさり、自分の知らない土地についての意見をきくように訊ねた。
「それは、ちがうわ。こっちへ来てみると、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]がどんなに新しい社会かということが一つ一つ身にしみてわかります――女の生活なんか、社会にもっている保証の程度がまるで違うんですもの」
泰造は、しばらくだまっていたが、
「それもよかろう」
と云った。
「徹底するまでいて見るのもよかろう」
伸子は非常にびっくりした。泰造は、自分の云うことが、どういうことを意味するかを知らずに云っている。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、その社会主義の社会生活に徹底する[#「徹底する」に傍点]と云えば、階級的な自身の立場を決定するということでしかない。もちろん、泰造自身は、気のすむまでというほどの意味で云っているのだった。そうとわかってきいていながら、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の生活について徹底するまで[#「徹底するまで」に傍点]という泰造の何気ない言葉から、伸子は衝撃を感じる自分としてのこころのそよぎをもっている。自身で云ったひとことが、パリの、この夏の夜更けの露台のそばでモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から来ている娘の、どんな思いに通じたかと知ったら、こんどは泰造が強い衝撃をうけずにいないだろう。伸子のおどろきは、自分の心の内外を感じ合わせて、深いのだった。
伸子と素子とが、ペレール四七番地のアパルトマンを出て、同じブルヴァールの並木はずれに洒落《しゃれ》た軒ランプを出している小さなホテルに部屋をとったのは、かれこれ午前一時だった。
もうすっかり灯の消されている狭い入口の廊下から、主婦に導かれて爪先さぐりに三階へのぼったその部屋は、あしたの朝になってみなければ、二つの窓が往来のどっちを向いて開いているのか、方角もわからないようにとりこめた部屋だった。二つの寝台の間の壁の上に、古風なビイドロ・ガラスの笠の電燈が灯っていた。一つのドアの奥は、この幾週間もつかわれずにあるらしい浴室だった。洗面台の水が細く出るだけだった。
いくら眼を大きくしても、鈍い光の下に重い茶色の雰囲気のどぎつくないようなその室内で、伸子は部屋着に着換えた。シーツだけが白くきわだった寝台に腰かけて伸子は今夜のあらましを素子につたえた。
「なるほどねえ。ぶこちゃんも、大分ふかいところをのぞいたっていうわけだな」
ペレールの親の家を出て来て、親子の間にとりかわされた会話について話していると、伸子にはひとしお強烈な刹那の色どりをもって、夕焼雲のてりはえるようだった母と越智との感情交渉のところを思いかえした。あの、伸子の若いすこやかな理性をめまい[#「めまい」に傍点]させそうだった多計代の女としてのゆらぎかた。――あのころ、多計代は母という自分の立場にさえ反撥しているようだった。いまの多計代にのこっているものは、その燠《おき》であり灰だとして、その燠と灰とは、様々の涙にしめらされて、何ときつい刺戟する匂いを立ちのぼらしているだろう。
「でも、よかったじゃないか。お父さんがそんなにあっさり、ぶこちゃんがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へかえることを承知して下すって――」
「そうなの。ほんとに思いがけなかった」
「きみとお父さんとの間が、ごく自然に行っている証拠さ。なかなかそう、すらっと通じ合うものじゃない」
素子は自分の生家のこみいった父との関係を思いめぐらす風だった。
「きみのお父さんはめずらしく寛大なひとだ」
素子のその言葉は、伸子をまた新しく自分の心のうちへひきかえさせた。伸子は、素子には云っていないのだったから――泰造が、徹底するまで[#「徹底するまで」に傍点]モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいてみるのもよかろうと云ったことが、自分の心にどのような衝撃を与えたか、ということについては。――そのような自分を、伸子は素子の前に全部うちひらいて見せてはいないのだった。
九
佐々の親たちと和一郎との感情をもつらせた旅費の問題は、その後、どんな風にけり[#「けり」に傍点]がついたのか。あとのいきさつは、伸子に一向わからなかった。ペレールの家へ伸子はあいかわらず日に一度、二日に一度と顔を出していたが、多計代はもうそのことにはふれなかった。和一郎もだまった。その様子で、伸子は、両親と和一郎との間には、もう伸子を必要としない協定がなりたったことを知ったのだった。そして、八月にはいると間もなく、佐々泰造、多計代、つや子の一行がロンドンへ行った。留守になったペレールのアパルトマンへは、ホテルを引きあげて和一郎夫婦がはいった。
パリの日本郵船支店から貨物船の便宜があって、不用になった佐々の荷物の一部を、ロンドンへ立つ前に東京の家へ向けて発送しておくということになった。
大きい木箱だの、金ものづくりの大トランクだのが、
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