繧フ健康に何事かおこったりしたら、と伸子はそんな場合の責任の感じからあわてた。
「お父様は、おききになった?」
「手帖に書いてあるはずだ。モンソー公園の近くなはずだった」
「御存じなら、そう早く云って下さればいいのに」
 考えてみれば、このパリで、みんなは何とばらばらに暮しているだろう。伸子たちの生活ぶりにいくらかでも関心をもってヴォージラールのホテルへも来てみたのは、泰造だけであった。パリへ来てからやがて一月たつのに、和一郎も小枝も、そんな気はないらしかった。和一郎たちの生活は、心持の上でも伸子と別なところにあるのに、多計代は、どんなよりどころでそう思うのか、伸子と和一郎たちがしめし合わせて、でもいるような口ぶりだった。
「とにかく、こんやは、御迷惑だろうが伸ちゃんにもすっかり思っていることを話してもらって、わたしにも云うことだけは云わせてもらおうじゃないか」
 銀鼠色のわなてん[#「わなてん」に傍点]のフェルト草履をはいている素足のつまさきをせわしく動かしながら、多計代は興奮の眼くばりで云った。
「親は一つも理窟をいうな。金だけは黙って出せっていうのが、伸ちゃんの何とか主義っていうのかもしれないがね。わたしは御免だ」
 例の多計代の、挑みかかる言葉つきだった。伸子はそれにひっかかるまいと努力しながら、それでもつい、
「勘ちがい、しないでよ、お母様!」
 ほとばしるように云った。
「わたしがいつ、一フランだって下さいって云ったことがあって? 和一郎の話じゃありませんか」
 ほんとに、旅費なんか出してもらっていなくてよかった。伸子は激しく考えた。
 きっとこんなこともあろうと、伸子は買物のために泰造からあずかる僅かの金でも、計算書にして収支を明白にして来た。パリには素子もいる。素子は、自分たちの暮しと、佐々の一家の生活と、この一ヵ月は二つの間をかけもっている伸子に、きびしいけじめを要求した。素子ははっきりした理由もなしに佐々のうちのものと食事によばれることさえよろこばなかった。
「和一郎の問題で、伸子も一緒に話せっておっしゃるならわかるけれど――そんな、……まるでわたしがお金でもゆすっているみたいな!」
「なんにもお前がどうこうっていうわけじゃないさ。だけれど、和一郎たちの味方をするのはいつも伸ちゃんじゃないか」
「そうお? 椅子をふりあげても、わたしは和一郎に味方して? お母さまも和一郎も、感情的にひっかかってごたついてばかりいたってはじまらないから、わたしは、実務的なことは実務的に片づけた方がいいでしょうと云っているだけだのに」
 泰造は、ひとことも口を利かずアーム・チェアにもたれて腕組みをしている一方の手で、ときどき目立たないように上歯の義歯を動かしている。重苦しい気分のとき泰造のあらわす癖だった。つや子はさっきから、母親と姉とのけわしい話声にはじき出されたように露台にいた。手摺りにもたれて、街燈がマロニエの並木を下の方からてらしている夜の静かなブルヴァールを見下している。日本を立つとき着せられて来たまま、ずっとそれを着ている草色のスカートのたけがつや子には短かすぎて、露台の手摺にもたれこんでつり上ったスカートのうしろと靴下の間から、ちらりとふとったみ[#「み」に傍点]が見えている。それは、いかにも身のまわりをこまやかに見まもってくれる者をもたない、中途半端な年ごろの少女の可哀そうな後姿だった。
 つや子のいまの後姿が、パリへ来てまで、家庭のごたつきに浮きつ沈みつ、その場その場の不和や和解で暮している佐々のうちの気分を、まざまざと反映している。伸子はその場の情景の上に字で書きしるされているように、それを感じるのだった。一家でパリへ来て、アパルトマンをかりて、通いの手つだいをつかって暮している。それだけの条件から云えば、それは国際的な中流の上の生活様式だった。けれども、生活気分は、何と、フランスのいわゆる中流家庭の生活感情とちがうだろう。フランスの中流人たちは、社交というものが中流階級の存在のための動脈、共通な利害の結びめであると理解して、伝統的に神経をくばるように鍛えられている。パリの中流層の人たちが、機会をのがさぬ愛嬌と機敏な打算とでブルジョア社会のより太い脈管へ、よりつよい綱へと一家をつなぐために緊張しているのにくらべると、パリでの泰造と多計代、特に多計代の生活気分はレジオン・ド・ノールをつけたどこかの酋長の妻のようにおおまかで、夫婦は、どちらも、佐々|第二世《ジュニア》である若い和一郎夫妻を、パリで開かれている自分たちの交際圏へ引き合わせ、何かと一家の将来のために計っておくというようなせせこましいことはしなかった。パリの生活にあらわれた佐々泰造と多計代の生活の素朴さは、親たちが日本の特権階級の内部にはいりこんで生きている種族でないことを、伸子に証明した。権力の液汁を一滴でも多く同族のなかに吸収しようとして、特権階級の人々がその結婚や知人関係をとおして毛細管をはりめぐらす手腕は、日本でもフランスでも同じことなのであった。
 伸子は、親たちのそういう素朴さに好意をもっている。それだのに、今夜多計代は金のことに絡めて伸子の「何とか主義」と、さも、あるところからは何でもとる主義がこの世の中にあるように、それが共産主義だとでもいうように、世界の一定の人々の間に流布している無知な偏見を平気で口にのぼせることは、金という現実的なきっかけがあるだけに伸子をまじめにおこらせた。
「つや子ちゃん」
 伸子は露台のところにいるつや子に声をかけた。
「あなた、もう今夜はおやすみなさいよ、ね。あした来て、又リュクサンブールへでもつれて行ってあげるから……」
 つや子は誰かから自分の存在が注意されるのを待っていたように、素直に露台から客室へ入って来た。
「お姉さま、帰るまえに、ちょっとこのひとのところへよって。――いい? 忘れない?」
 伸子の頸につや子は重く両腕を巻いた。
「忘れない。――だから臥ていらっしゃい。いい子」
 両親の方を見ないで夜の挨拶をし、つや子が室を出て行った。伸子はあらたまって、多計代を主として、両親に云った。
「旅先でもあるし、お母様もごたごたしたお気持なんだろうけれど、わたし、お金のことについては、はっきりしておいて頂きたいと思うわ。これまで、随分お母様とはいろんなことで云い合ったけれど、お金について今夜のようにおっしゃったのは、はじめてなんだから。これまで実際にあったことをあったとおりに考えて見て下されば、お母様は、わたしに対して、ただの一遍だって、出すだけは黙って出せ、と云うような金をお出しになったことはなかったと思うわ。そうお思いにならない?」
 だまって多計代は顔をそむけた。
「わたしから、お金をねだったということがあったかしら。佃と結婚したとき、お母様は、自分の思うことをするのなら、経済的にもすっかり自分でやれっておっしゃったでしょう。あれは、今になってみればみるほどありがたかったと思っているんです。和一郎さんには、お母様少しちがうのよ。オートバイのときだって。ヴィクターのときだって。和一郎さんは、ねだって成功して来ているのよ。小枝ちゃんと結婚したい、とあのひとが云ったときお母様は、すきな結婚をするなら、何でも自分でやれ、とおっしゃったかしら。――そうじゃなかったろうと思うんです」
 ありのままを、ありのままに話しているうちに、伸子は、和一郎が総領息子として子供のときから母親との関係のうちにつみ重ねて来ている特権のようなものを、はっきり目の前に見た。それは、同じ総領と云っても娘である伸子と母との間にあったものとは全くちがった性質のものだった。そして、伸子の知らない一年半のうちに、保が死に、和一郎が結婚したという新しい事情は、金の話に、これまでの佐々の家庭には無かった一種の複雑さを与えてあらわれるようになって来ているのだった。次々とそれらが明瞭になって来て、伸子は、こういう種類の問題で、一家のうちの「娘」である自分のおかれている立場というものが、はじめて客観的にのみこめたのだった。
「お母様は、これまでの習慣で、何でもわたしをひっくるめておっしゃるけれど、こういう問題では、わたしは自然第三者的な立場なのよ。――そうでしょう?」
 単純な云いかたではあるけれども、これらの言葉には、日本の「家」のなかでおかれている伸子の娘としての立場と、自分としての生きかたを主張している女としての条件の自覚がこめられているのだった。
「…………」
「もし、わたしがここのうちのなかで、こういう問題についていつも第三者的な立場に自分を置こうとしないなら、どういうことになるのかしら――」
 多計代は沈黙したまま、不安げに長い睫毛《まつげ》をしばたたいた。伸子の云っていることのわけが多計代にのみこめたのだった。もしも多計代が不用意に云ったようなことが事実あって、伸子が和一郎をけしかけて佐々の家の金銭問題をせせくる女であるならば、佐々の家の将来はどうなるだろう。運転手の江田が和一郎を若様とよぶにまかせている多計代のこころもちには、自分たちの代でこれまでにした佐々の家という意識、そのあととり息子としての和一郎という意識がつよく作用している。パリへ来て、母の知らない別のホテルに泊って、自分たち夫婦の旅費の精算を強硬に主張するようになった和一郎のこころの底にも、日頃の多計代の口癖が反映している。どうせやがてはみんな自分のものになるものなら、それが必要な今ほしい、出しおしみするなといういきりがあるのだろう。
 和一郎が学生であったころ、親たちと伸子との間におこった数々の衝突や争いを、今夜の話の内容と比べれば、どちらの側にも打算がなくて若々しく、さっぱりしたものだった。伸子は、悲哀をもって、佐々の家庭にも新しい局面がひらかれたことを感じた。
「お母様、よく覚えていて頂戴。わたしはもうこれから決して、お母様と和一郎さんとのお金の話には立ち入らないことにきめてよ。こんどは、偶然あんなことで仕方がなかったけれど……。こんどだって、お母様が思っていらっしゃるよりも和一郎が云い出した心持は根が深いと思うから、わたしは実際的に処置した方がいいと思っただけなんだから」
「――何も彼も、わたしが行届かなくて、相すまないことだよ」
 多計代は、あからさまな反語の抑揚でそう云った。
「どこの親が、ためあしかれと思って苦労するものか! 子供も生んだことのないひとに親の気持がわかってたまるものか」
 伸子は三十歳になって、現在良人をもっていない。子供ももっていない。母である多計代は、女として伸子が、そこにひけめ[#「ひけめ」に傍点]をもってでもいるように、その一点を狙って放った銛《もり》のように云って椅子から立ち上った。丁度そのとき、アパルトマンの廊下で電話のベルが鳴った。
 電話は素子からだった。
「いやにおそいからどっかへ行っているのかと思った――どうした?」
「ちょっと――いろいろあるもんだから」
 感情のわだかまりから急にぬけ出せない伸子の声は、うっかりして沈鬱だった。
「――相変らずなんだなア」
 素子は、電話口で考えていたが、
「迎えに行こうか」
 その思いつきに弾んだ調子だった。
「迎えに行けば、いくら何でも放免だろう」
「じゃ、そうして。来るときね、あのクリーム色の小さい鞄に、部屋着と顔を洗う道具を入れて来て――二人分――いい?」
 あんまりおそくなるようだったら、ヴォージラールまでかえらずに、いっそここのブルヴァールのはずれで街路樹のかげに一つ小さいホテルがある、そこへでも泊って見るのもいい。伸子は、いくらか重苦しい雲にきれめの見えた思いで客室へ戻って来た。泰造がひとりで肱かけ椅子に残っていた。
「お母様は?」
「よこにでもなったんだろう。しばらくそのままにしておけ」
 泰造は、拇指と小指とで、両方のこめかみ[#「こめかみ」に傍点]のところを揉むようにしているのだった。
「頭痛がなさるの?」
「頭痛というほどじゃないが」
 なお自分でこ
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