ゥえり見た。うちのめされたようになって、ぼっとしている十三歳の肥ったつや子の様子は哀れだった。
「どういうことだったのか、ちっともわけがわからない」
 とがめるような伸子の調子に、多計代が、
「和一郎が来ていたんだよ」と答えた。「あの、おこりようったら……つや子さんも見ていただろう。まるで親の見さかいがなくなるんだから――、おそろしい」
 くっ、というむせび泣きの声と一緒につや子がくるりと向きなおって、廊下ごしに客室と向いあっている自分の小部屋へ逃げこんでしまった。
 午後二時ごろ和一郎が来て、引越すホテルが見つかったから、金を渡してくれと申し出た。それが、ことのはじまりらしかった。和一郎の主張は、和一郎と小枝が今度の旅行でつかうべき金額全部を、この際、はっきり計算して、親たちの会計からわけて貰いたいというのが眼目だった。
「急にそんなことを云い出されたって、わたしにどうしようがあるもんじゃあるまいし――第一、お父様もいらっしゃらないのに」
 娘をあいてに、いきさつを説明しているうちに神経的に喉のつまっていた多計代の声が、段々自然に出るようになって来た。
「第一お前、あのひとたちに、お金をみんなわたしてなんか御覧。半年のところが三月で消えてしまうにきまっているから……」
 親たち夫婦とつや子がペレールへ引越して間もない或る朝、泰造がワグラム広場で和一郎夫婦にでくわしたことがあった。午前十時すぎごろ、若夫婦が広場の角のカフェーのテラスで、めいめいの前に葡萄酒のコップをおいて、のんびり往来を眺めていたところだった。小枝が目ざとく歩道を近づいて来る泰造を発見した。
「――お父様よ」
と云ったとき、もう泰造は二人のわきへ来た。その場では泰造らしく、小枝に機嫌のいい調子で口をききながら、自分もコーヒーを一杯つきあって、わかれて行った。
 この插話を小枝からきいたとき、伸子は、さぞ若い連中がへこたれたろうと思って、おかしかった。笑う伸子に、小枝が心配そうな眼ざしで、
「そんなに笑わないで頂戴」
と云った。
「あの朝、わたし何だか自信がなくて、いくら、こんなところはおやめなさい、って云っても、お兄様ったらきかないんだもの。――まるで意地をはったみたいにして……」
 小枝の不安は、よりどころないことでなかった。泰造は、その日の夕方、外出から帰って来るといあわせた伸子に、朝のできごとを話した。
「どこの、のら息子どもが、朝っぱらから、こんなところにとぐろを巻いているのかと思って近くへ行ったら、和一郎と小枝だ」
 しり太の眉根をしかめて泰造が頭をふった。
「まったく、仕様がない」
 泰造の心には、和一郎に対して、とりかえしようのない不信頼がうちこまれたらしかった。
「将来まじめに建築でもやろうと云う者なら、折角の機会に観ておくべきものは、ありあまるほどあるんだ」
 泰造が、きびしく和一郎を批評する場合でも、多計代はそのことの主な責任を小枝に負わせて弁護した。小枝が享楽的で和一郎に勤勉なこころをふるいたたせようとしないから、と。金銭について警戒する多計代の心には、品のいい肉桂色《シナモン・カラー》の絹レースの服をつけ、すらりと美しい脚でパリの人目さえひきつけている小枝の姿態が浮ぶにちがいなかった。金の話をしに、和一郎だけが一人で来たということも、小枝に対する多計代の感情をこじらせた。小枝はいつも陰で和一郎をつっついているという風に。
「しまいには、詐欺も同じだなんて怒り出してさ……誰がお前……全く泣くにも泣けない気持だった――死ぬのにしょってゆけるものじゃなし、いずれはみんなあのひとのものになるにきまったものじゃないか――それも、どれほどに沢山あるというわけでもあるまいし……」
 二時間以上も、云いあっていた揚句、和一郎は、おそろしい顔つきになって多計代を睨みすえていたと思ったら、いきなり立ちあがってそこに在った椅子をふりあげたのだそうだった。
 小枝との結婚を多計代が承知しようとしなかったとき、和一郎は、茶碗をぶつけた。
 おろおろして、それでも自分の云い分をまもって、つくろった多計代の話をきいているうちに、和一郎の乱暴なふるまいをとがめながら、衝動的な憎悪につかまれた彼の激情が伸子にわかって来るようだった。
 伸子は、苦しげにむずかしい顔でしばらく黙っていたが、
「お母様、せん、和一郎さんが茶碗をぶつけたというときね、あの人は、お母様をめがけて茶碗を投《ほう》ったの? それとも、ただ畳かどっかへなげつけたの」
「そりゃあ、お前……」
 つづけて口から出そうになった言葉を、思わずためらって、多計代は、きびしい表情で自分の答をまっている娘の顔へ視線を向けた。
「いかにあのひとだって、わたしにぶつかるように投げつけやしなかったさ」
「きょうはどうだったの?」
「…………」
「お母様は、お金のために和一郎さんが椅子でお母さまをうち殺すことがあるなんて、ほんとにお思いになったの?」
「――伸ちゃんは、あのときの和一郎の相好を見ていないからわからないんだ――ほんとに、あの勢ったら」
「もちろん和一郎さんは、悪いわよ。ひとをおどすようなことをするなんて、男らしくない卑劣なことだわ。――でも、お母様」
 伸子の体をあふれてこのいきさつ全体に対する厭《いと》わしさ、悲しさ、腹立たしさが、いっぱいになった。伸子は低い、迫る声で多計代に云った。
「お母様には、その途端にだってわかっていたはずよ。和一郎がそれ以上のことをしようとしていないっていうことは――」
「…………」
「それなのに、なぜ、いきなり、殺されるところだったなんておっしゃるの?」
「…………」
「ね、なぜそんな風におっしゃるの」
 渋いような涙が伸子の目の中に浮いた。
「つや子があんまりかあいそうだわ」
 多計代も和一郎も、大騒動をして、そのことで感情放散をやっている。十三の少女のつや子に、どうして、そんな事のいきさつが噛みわけられよう。
「和一郎さんには、今後絶対そういう乱暴をさせちゃいけない」
「伸ちゃんからも、よくよく云ってきかせてやっておくれよ」
 それよりも先に、多計代の態度だ、と伸子は思うのだった。和一郎のなかには少年のころから神経質でわがままな人間のもっている一種の残忍さがあった。すべてを小枝にあてつける多計代の刺すような言葉が、和一郎にどんなに猛烈な母への憎悪をたきつけるか。それは伸子にも佃のことで身におぼえがある。
「とにかく、お母様も和一郎さんたちの結婚は許していらっしゃるんだから、今更ここで小枝ちゃんのことをとやかく云ったって一つもいい事はないわ」
 すると多計代は、伸子にとって思いがけないほど元気な辛辣な口調で、
「へえ。――そりゃあまた伸ちゃんらしくない妥協的なことをきくもんだね」
 挑むように娘を見た。
「伸ちゃんの主義は、決して妥協しないっていうのかと思っていたのに」
 その調子は、一時の驚きがすぎて多計代がふだんの多計代に戻ったという証拠だった。伸子は議論をさけた。
「お母様、どんなときにも和一郎さんにおどかされる癖をつけちゃだめよ。よくて? あのひとのためにだってこわいことだわ。お母様はよけいな刺戟的なこと云わないで、毅然としていらっしゃればいいのよ。そして、やっぱり事務的なことは事務的に早くかたづけた方がよくはないのかしら」
「お金のことかい?」
「そうなんでしょう? きょうのさわぎにしたって」
「そりゃそんなようなもんだけれど」
 多計代は、金の問題を意識的にさけた。多計代は長椅子の上に両脚をのばしたまま向きをかえた。あけはなした露台から、ブルヴァールを越えてひろく夕空が見晴らせる位置になった。
「和一郎が椅子をふりあげたとき、あのひとの手をそこでつかまえているのが誰だか、わたしにははっきりわかった」
 前後のつながりなくつぶやく多計代の声を、伸子は憂鬱に聴いた。多計代の調子は特別に重々しく、そのことが、彼女の意味しているものを伸子にさとらせた。多計代は、「彼」が――保の霊が母をまもった、といおうとしている。アパルトマンに引越して来てから、白地|錦襴《きんらん》の包みものは、夫婦の寝台の枕元の台の上におかれているのだった。

        八

 伸子のまじめな心配は、パリから数千キロはなれた満州とソヴェトとの国境にかかっている。伸子のてぢかななやましさと混乱は、ブルヴァール・ペレール四七番地のアパルトマンにあった。
 日曜日で通い女中のマダム・ルセールが休み、伸子が夕飯の支度をした日だった。その晩は泰造もいた。食後、泰造と多計代との間に和一郎の話が出た。和一郎はその日も小枝と一緒に来て、旅費の処置について母の返答をもとめたのだそうだった。この前、和一郎がおこった日も、多計代は、旅費の処分という点ははっきりさせずに、和一郎が我ままを云って乱暴したという風な面を主にして泰造にその日のことを告げていた。きょうも、多計代は、
「ほんとうに、あのひとたちったら、何と考えているんだろう」
 相談というよりは、泰造に自分の不服を訴える口調だった。
「つれて来てもらったおかげで、パリだって見ているんじゃありませんか。自分たちの力で何ができるというんだろう」
 食堂の食器棚へ洗ったコップをしまいながら、伸子は多計代がそう云っているのをきいた。多計代がそんなニュアンスで泰造の耳に入れる限り、旅費の配分という実際的な問題は解決されようがない。伸子は多計代の態度はごたごたを深くすると思った。泰造は長男に批評をもっているのだから、妻の話しようによってはただ和一郎に対して不愉快な感情をつよくするばかりにきまっている。和一郎とすれば、今度の旅費の問題は、おそらくカトリ丸に乗ったときから心にあったことだろう。いずれ実際的に扱われなければならないことだし、泰造を通さないでは何一つ決着しようのない種類のことでもある。
 伸子は、
「ねえお母様、こんやはお父様もいらっしゃるから丁度いいわ。そのことをすこし本気に御相談なさるといいわ」
と云った。
「お父様は、和一郎さんから直接には何もきいていらっしゃらないんだから。よく具体的にお話しになれば……」
 伸子は台所に少しいて、それから浴室で体を洗い、帰り支度をした。
「じゃ、さようなら。あしたは午後来るけれど、何か御注文があること? 買いものがあったらして来ることよ」
 露台に向って両親とつや子が半円形にかけている客室へ声をかけた。
「どうですね、多計代。伸子がああ云っているが――いるものはありませんか」
 それに答えず、ちょっと黙っていた多計代は、
「伸ちゃん、帰るのは、少し待って貰おう」
 思いがけなくかたい、命令的な調子だった。
「こっちへ来ておくれ」
 そろそろと近よってゆく伸子の顔を、多計代は椅子の上からふり仰ぐように見た。
「伸ちゃん、こんやは一つ、お前からすっかりお父様にお話して貰おうじゃないか。――おおかた伸ちゃんには、みんなわかっているんだろうから」
「わたしにわかっているって――なにが?」
 多計代から泰造へと視線をうつしながら、伸子は、あんまり意外でナア、ニ、オ? とひとこと、ひとことひっぱった。
「話しに出ていたのは、和一郎さんのことじゃなかったの?」
「だからさ、あなたから、何でも思っていることをみんなお父様に云って、思うとおりにして頂いたらいいだろう、って云っているんですよ」
「へんだわ、お母様ったら」
 単衣の下に骨だって見える母の肩つきや、白粉がむらになっているひきつめ髪の額を眺めて、伸子は悲しい、いやな気になった。
「和一郎さんから話をおききになったのはお母様じゃないの。わたしじゃないのよ。おまけに、お金のことじゃありませんか。わたしが何を知っているとおっしゃるのかしら」
「そりゃそうだけれどね。わたしには、だれも、和一郎がこんど越したホテルを知らしてくれないじゃないか……」
 そう云われて、伸子は自分もそれを知らされていないことに気がついた。
「そう云えば、誰も知らないんじゃないのかしら」
 もし多計
前へ 次へ
全175ページ中103ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング