なれない伸子を見ながら、
「あなたは大変よくお話しなさいましたよ」
と、はげました。
「わたしたちが知らなかった知識を与えられました。けれどね、おそらくあなたは、こういう場合を余り経験していらっしゃらないんでしょう」
伸子はありのまま答えた。
「日本では一遍も講演したことがありません。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でだって、これがはじめて」
「そうでしょう? あなたは、大へんたびたびキモノのそこのところを」
とニキーチナ夫人は、伸子の着物の上前をさした。
「ひっぱっていましたよ」
「あら。――そうだったかしら……」
「御免なさい、妙なことに目をとめて」
笑いながらニキーチナ夫人は鳶色ビロードの服につつまれた腕を伸子の肩にまわすようにした。
「そこについている刺繍があんまりきれいだからついわたしの目が行ったんです。そうすると、あなたの小さい手が、そこをひっぱっているんです」
ニキーチナ夫人は、伸子たちに、土曜会の仲間に入ることをすすめ、数日後には一緒に写真をとったりした。でも、土曜会とは、どういう人々の会なのだろう。伸子たちは、つい、行きそびれているのだった。秋山宇一は、おとといも行ったというからには、土曜会の定連なのだろう。
「この間は、珍しい人たちが来ていましたよ、シベリア生れの詩人のアレクセーフが。わたしに、あなたは、こういうところに坐っているよりも、むしろプロレタリア作家の団体にいる筈の人なのじゃないかなんて云っていましたよ」
こういう風に、秋山宇一は伸子に、いつも自分が経験して来た様々のことを、情熱をもって描いてきかせた。けれども、それは、きまって、自分だけがもう見て来てしまったこと、行って来てしまったところについてだった。そして、そのあとできまって秋山宇一は、
「是非あなたも行かれるといいですよ」
と云うのだったが、どういう場合にでもあらかじめ誘うということはしなかったし、この次は一緒に行きましょうとは云わなかった。また、こういう順序で、あなたもそれを見ていらっしゃいという具体的なことは告げないのだった。
ドーリヤに挨拶してその室を出ようとした伸子が、
「ああ、秋山さんたち、お正月、どうなさる?」
ドアの握りへ手をかけたまま立ちどまった。
「きょう大使館へ手紙をとりに行ったら、はり出しが出ていたことよ。元旦、四方拝を十一時に行うから在留邦人は出席するようにって――」
「――そうでしたか」
内海は黙ったまま、すっぱいような口もとをした。
「何だか妙ねえ――四方拝だなんて――やっぱりお辞儀するのかしら……」
困ったように、秋山は大きい眉の下の小さい目をしばたたいていたが、
「やっぱり出なけりゃなりますまいね」
ほかに思案もないという風に云った。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいる民間人と云えば、われわれぐらいのものだし……何しろ、想像以上にこまかく観られていますからね」
ドーリヤのいるところで、秋山は云いにくそうに、云った。そして、残念そうに内海を見ながら、
「うっかりしていたが、そうすると、レーニングラードは三十一日にきり上げなくちゃなりますまいね」
秋山は国賓としての観光のつづきで、レーニングラードの|ВОКС《ヴオクス》から招待されているのだそうだった。
四階の自分の室へ戻る階段をゆっくりのぼりながら、伸子は、このパッサージというモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の小ホテルに、偶然おち合った四人の日本人それぞれが、それぞれの心や計画で生きている姿について知らず知らず考えこんだ。素子も、随分気を張っている。秋山宇一も、何と細心に自分だけの土産でつまった土産袋をこしらえようと気をくばっていることだろう。秋山宇一は、日本の無産派芸術家である。その特色をモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で鮮明に印象づけようとして、彼は、立場のきまっていない伸子たちと、あらゆる行動で自分を区別しているように思えた。同時に伸子たちには、彼女たちと秋山とは全く資格がちがい、したがって同じモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を観るにしろ、全然ちがった観かたをもっているのだということを忘れさせなかった。その意識された立場にかかわらず、秋山宇一は大使館の四方拝については気にやんで、レーニングラードも早めに切り上げようとしている。秋山が短い言葉でこまかく観られている[#「こまかく観られている」に傍点]といったことの内容を直感するほどモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に生活していない伸子には、秋山のその態度が、どっち側からもわるく思われたくない人のせわしなさ、とうけとれた。伸子は、日本にいるときからロシア生活で、ゲ・ペ・ウのおそろしさ、ということはあきるほどきか
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