そうに云った。
「わたしたちはどっさりのものを失ったんです。――両親は、非常に金持でした。大きな金持の商人でした」
ドーリヤは、それをロシア語で、ゆっくり、重々しく云った。秋山が暗示的に、伸子に向って補足した。
「ドーリヤさんの両親は、シベリアの方に生活しているらしいですよ。――そうでしたね?」
「そうです、そうです」
ドーリヤは、シベリアという言葉に幾度も頷ずきながら、濃く紅をつけた唇の両隅を、救いようのない困惑の表情でひき下げながら、下唇をつき出すような顔をした。伸子にもおぼろげに察しられた。ドーリヤの親は何か経済攪乱の事件にひっかかっているのだ。
「ドーリヤさんは、どこで、そんなに日本語が上手になったの?」
やがて、すっかり話題をかえて伸子がきいた。箱根細工から思いがけない物思いにひきこまれかかっていたドーリヤには、伸子の日本語がききとれなかった。内海が先生のように几帳面な口調で通訳した。
「おお、サッサさん、あなた、ほんとに、わたしの日本語上手と思いますか?」
ドーリヤ自身、そのきっかけにすがりつくようにして、もとの陽気さに戻ろうとした。
「思います」
「ほんとに、うれしいです」
その声に真実がこもっていた。ドーリヤはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]での生活の基礎を、すこしの英語、すこしの中国語、日本語などの語学においているのであった。
「わたくし、日本語話すとき、考えません。ただ、出来るだけ、迅く迅く、途切れないように」
と最後の途切れないようにという一字だけロシア語をはさんで、
「つづけて話します。きいている人、思いましょう? あんなになめらかに話す。彼女は必ずよく知っているだろうと。これ、かしこいでしょう?」
ドーリヤの若い娘らしい率直さが、みんなを大いに笑わせた。秋山宇一は、何遍も合点合点しながら、手をもみ合わせた。
「わたしたち日本人には、こういうところが足りなさすぎるんですね。大胆さが足りないんです。いつも間違いばかりおそれていますからね」
だまっていたが、伸子は、この時ドーリヤとさっき廊下で話して来たシューラとの比較におどろかされていた。はしゃいで、チャールストンの真似をしているときでも、しんから気をゆるした眼つきをしていないドーリヤと、清潔なぼろと云えるようなジャケツをきたやせたシューラの落着きとは、何というちがいだろう。エナメル靴をはいたドーリヤは何ともがいているだろう。
ドーリヤ・ツィンは、今夜七時から友達のところの誕生祝いに出かける。二三人の仲間が誘いに来るのを秋山の室で待ち合わせることになっているのだそうだった。ドーリヤ自身は何も云わなかった。秋山がそのことを話した。そして、
「もう何時ごろでしょうかね」
時計をみるようにした。伸子は、ひき上げる時だということを知った。秋山は、自分のところへ誰か訪ねて来るとき、伸子たちがいあわすことを好まなかった。いつも、自然に伸子たちが遠慮する空気をつくった。
「じゃ、また」
伸子が椅子から立ちかけると、ドーリヤが思いがけないという顔で伸子と秋山を見くらべながら、自分も腰を浮かして、
「なぜですか?」
と尻あがりの外国人のアクセントで云った。
「どうぞ。どうぞ。サッサさん。時間どっさりあります。わたくし、サッサさんの日本語きくのうれしいです。ほんとにうつくしいです」
秋山はしかし格別引きとめようともしないで、立ったままでいる伸子に、
「ああ、おとといニキーチナ夫人のところへ行きましたらね、どうしてあなたがたが来ないかと云っていましたよ」
「そうお――……」
「行かれたらいいですよ、なかなかいろいろの作家が来て興味がありますよ」
「ええ……ありがとう」
伸子は秋山宇一らしく、おととい[#「おととい」に傍点]のことづてをするのを苦笑のこころもちできいた。
ニキーチナ夫人は博言学者で、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の専門学校の教授だった。ケレンスキー内閣のとき文部大臣をしたニキーチンの夫人で、土曜会という文学者のグループをこしらえていた。瀬川雅夫が日本へ立つ三日前、瀬川・伸子という顔ぶれで、日本文学の夕べが催された。日本へ来たことのあるポリニャークが司会して、伸子は、短く、明治からの日本の婦人作家の歴史を話した。その晩、伸子は、絶えず自分のうしろつきが気にかかるような洋服をやめて、裾に刺繍のある日本服をきて出席した。
講演が終ると、何人かのひとが伸子に握手した。ニキーチナ夫人もそのなかの一人だった。伸子は夫人の立派なロシア風の顔だちと、学殖をもった年配の女のどっしりとした豊富さを快く感じた。ニキーチナ夫人は、鼻のさきが一寸上向きになっている容貌にふさわしいどこか飄逸《ひょういつ》なところのある親愛な目つきで、場所
前へ
次へ
全437ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング