あるのに伸子はびっくりした。
「わかるわ――日本にも肺病はどっさりよ」
「――わたしは技術がないから、ほかの働きが出来ないんですよ。でも、わたしはこわがっちゃいないんです、もうじき、サナトリアムに入る番が来るから」
そのとき誰かが階段をあがって来た。シューラは話すのをやめて細工ものをとりあげた。鞣《かわ》帽子をかぶって綿入半外套を着た若くない男があがって来て、それとなく伸子に注目しながら、一つのドアの中に入った。間もなく、手洗所のわきの女中室でベルが鳴った。いまの男が、茶でも命じるのだろう。シューラは、細工ものと椅子とをもって、廊下のはずれにある女中室の方へ去った。――やっぱり廊下は工合がわるい。
伸子は、時間つぶしに一段一段、階段の数をかぞえながら三階へ降りて行った。それは二十六段あった。粗末な花模様絨毯がしかれている廊下の右側にある秋山宇一の室のドアをたたいた。
「おはいりなさい」
賑《にぎ》やかに若い女の声が答えた。ドアをあけると、壁ぎわによせたバネなしのかたい長椅子の上に、秋山宇一とドーリヤ・ツィンとがぴったりよりそってかけていて、窓ぎわのデスクに内海厚がよりかかっている。
「今晩は――お邪魔じゃないこと?」
「どぞ、どぞ」
ドーリヤ・ツィンが早口の日本語で云った。
「わたしたちの勉強、すんだところです、ね秋山さん――そでしょう?」
「ええ――どうぞ」
ドーリヤと秋山とが、そうやってくっついてかけている様子は、まるで丸くふくれて真紅な紅雀のよこへ、頭が灰色で黒ネクタイをつけた茶色のもっと小さい一羽が、自分からぴったりくっついて止り木にとまっているようだった。若い内海厚が却ってつつましくドーリヤからはなれているところも面白かった。ドーリヤ・ツィンという珍しい姓名をもっているこの東洋語学校の卒業生から、秋山はこの頃ロシア語を習っているのだった。
「ドーリヤさんと秋山さんがそうして並んでいるところは、二羽の紅雀のようよ」
伸子が笑いながら云った。
「ベニスズメ?――それなんでしょう、わかりませんね」
「なんていうの? 紅雀」
伸子にきかれた内海は、
「さあ」
と首を曲げた。伸子は、不審がっているドーリヤの気をわるくしないようにいそいで、
「小鳥」
とロシア語で云った。
「二つの小鳥……二つのロビンよ」
「おお、ロビン! アイ・ノウ」
ドーリヤは英語をまぜて叫んで、面白そうに手をうち合わせた。
「ロビン! 英語の詩でよんだことあります。それ、美しい小鳥です。そうでしょう? サッサさん」
「そうよ。ドーリヤさんは、紅い紅雀よ、秋山さんは髭の生えている紅雀」
「まあ、素敵!」
ドーリヤは、すっかり面白がって大笑いしながら、テーブルの奥の長椅子から、とび出して来た。
「サッサさん、可愛いかた!」
そう云って伸子を抱擁した。ドーリヤは伸子を抱きしめると、そのまま、あっさり伸子からはなれ、衣裳タンスの前へ行って、眩《まぶ》しい光りを反射させている鏡へ自分の全身をうつした。横姿から自分を眺めながらスカートの皺などを直した。ドーリヤは、半分アジアで半分はヨーロッパの血色のいい丸顔をふちどっているブロンドの髪や、たっぷり大きい胸元に似ずスラリとした自分の脚つきを一わたり眺めて、それに満足したらしく、小声でダンス曲をくちずさみながら、一人でチャールストンの稽古をはじめた。両肱をもちあげて自分の足もとを見おろしながら、エナメル靴の踵と爪先とを、うちそとにせわしく小刻みに動かした。
「サッサさん、あなたチャールストン踊れますか? わたし、これ、きのうならいました。むずかしいです」
「ロシアの人のこころとチャールストンのリズム、ちがうでしょう」
伸子も、ドーリヤにわからせようと片言の日本語になって云った。ドーリヤは、なおしばらく、せかせかとぎごちなく足を動かしていたが、
「本当だわ」
ロシア語で、真面目な顔つきで云って足のばたばたは中止にし、両手をうしろに組んで、面白いことをさがし出そうとするように、秋山の室のなかをぐるりと歩いた。やがて伸子のよこにかけて羽織をいじくっているうちにドーリヤは、子供のとき両親につれられて、日本見物に行ったときのことを話し出した。
「何と云いました? あの温泉のある美しい山の公園――」
「どこだろう、ハコネですか」
秋山が云った。
「おお、ハコネ。そこで、わたくし、一つの箱買って貰いました。小さい小さい板のきれをあつめて、きれいにこしらえた箱です、そして、それ、秘密のポケットもっていましたね」
「ああ寄木細工の箱だ――貯金箱ですよ」
慎重な顔で内海が、きわめつけた。
「その箱、いまどこにあるの?」
伸子がそうきくと、ドーリヤ・ツィンは目に見えて悄気た。両肩をすくめて、
「知りません」
悲し
前へ
次へ
全437ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング