されて来ていたが、日本側のこまかい観かた[#「こまかい観かた」に傍点]の存在やその意味方法については、ひとことも話されるのをきいていなかった。
階段に人気のないのを幸い、伸子は紫羽織のたもとを片々ずつつかんだ手を、右、左、と大きくふりながら、一段ずつ階段をとばして登って行った。二人しかいないホテルの給仕たちは、三階や四階へものを運ぶとき、どっさりものをのせた大盆をそばやの出前もちのように逆手で肩の上へ支え、片手にうすよごれたナプキンを振りまわしながら、癇のたった眼つきで、今伸子がまねをしているように一またぎに二段ずつ階段をとばして登った。
四
その年の正月早々、藤堂駿平がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来た。これは、伸子たちにとっても一つの思いがけない出来事だった。三ヵ月ばかり前、旅券の裏書のことで、伸子が父の泰造と藤堂駿平を訪ねたときには、そんなけぶりもなかった。藤堂駿平の今度の旅行も表面は個人の資格で、日ソ親善を目的としていた。ソヴェト側では、大規模に歓迎の夕べを準備した。その報道が新聞に出たとき、秋山宇一は、
「到頭来ましたかねえ」
と感慨ふかげな面もちであった。
「この政治家の政治論は妙なものでしてね、よくきいてみればブルジョア政治家らしく手前勝手なものだし、近代的でもないんですが、日本の既成政治家の中では少くとも何か新しいものを理解しようとするひろさだけはあるんですね。ソヴェトは若い国で、新しい文化をつくる活力をもっている。だから日本は提携しなければならない。――そういったところなんです」
そして、彼はちょっと考えこんでいたが、
「いまの政府がこの人を出してよこした裏には満蒙の問題もあるんでしょうね」
と云った。
こっちへ来るについて旅券のことで世話になったこともあり、伸子は藤堂駿平のとまっているサヴォイ・ホテルへ敬意を表しに行った。
金ぶちに浮織絹をはった長椅子のある立派な広い室で、藤堂駿平は多勢の人にかこまれながら立って、葉巻をくゆらしていた。モーニングをつけている彼のまわりにいるのは日本人ばかりだった。控間にいた秘書らしい背広の男に案内されて、彼のわきに近づく伸子を見ると、藤堂駿平は、鼻眼鏡をかけ、くさびがたの顎髯《あごひげ》をもった顔をふりむけて、
「やあ……会いましたね」
と東北なまりの響く明るい調子で云った。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は、どうです? 気に入りましたか。――うちへはちょいちょい手紙をかきますか?」
伸子が、簡単な返事をするのを半分ききながら、藤堂駿平は鼻眼鏡の顔を動かしてそのあたりを見まわしていたが、むこうの壁際で四五人かたまっている人々の中から、灰色っぽい交織の服を着て、いがくり頭をした五十がらみの人をさしまねいた。
「伸子さん。このひとは、漢方のお医者さんでね。このひとの薬を私は大いに信用しているんだ。紹介しておいて上げましょう。病気になったら、是非この人の薬をもらいなさい」
漢方医というひとに挨拶しながら伸子は思わず笑って云った。
「おかえりまでに、わたしがするさきの病気までわかると都合がいいんですけれど」
藤堂駿平のソヴェト滞在はほんの半月にもたりない予定らしかった。
「いや、いや」
灰色服をきたひとは、一瞬医者らしい視線で伸子の顔色を見まもったが、
「いたって御健康そうじゃありませんか」
と言った。
「わたしの任務は、わたしを必要としない状態にみなさんをおいてお置きすることですからね」
誰かと話していた藤堂駿平がそのとき伸子にふりむいて、
「あなたのロシア語は、だいぶ上達が速いそうじゃないか」
と云った。伸子は、自分が文盲撲滅協会の出版物ばかり読んでいることを話した。
「ハハハハ。なるほど。そういう点でもここは便利に出来ている。――お父さんに会ったら、よくあなたの様子を話してあげますよ。安心されるだろう」
その広い部屋から鍵のてになった控間の方にも、相当の人がいる。みんな日本人ばかりで、伸子はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てからはじめて、これだけの日本人がかたまっているところをみた。小規模なモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大使館の全員よりも、いまサヴォイに来ている日本人の方が多勢のようだった。藤堂駿平のそばから控間の方へ来て、帰る前、すこしの間を椅子にかけてあたりを眺めていた伸子のよこへ、黒い背広をきた中背の男が近づいて来た。
「失礼ですが――佐々伸子さんですか?」
「ええ」
「いかがです、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は――」
そう云いながら伸子のよこに空いていた椅子にかけ、その人は名刺を出した。名刺には比田礼二とあり、ベルリンの朝日新聞特派員の肩がきがつい
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