ていた。比田礼二――伸子は何かを思い出そうとするような眼つきで、やせぎすの、地味な服装のその記者を見た。いつか、どこかで比田礼二という名のひとが小市民というものについて書いている文章をよんだ記憶があった。そして、それが面白かったというぼんやりした記憶がある。伸子は、名刺を見なおしながら云った。
「比田さんて……お書きになったものを拝見したように思うんですけれど――」
「…………」
 比田は、苦笑に似た笑いを浮べ、口さきだけではない調子で、あっさりと、
「あんなものは、どうせ大したもんじゃないですがね――」
と云った。
「あなたのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]観がききたいですよ」
「……なにかにお書きになるんじゃ困るわ、わたしは、ほんとに何にもわかっていないんだから」
「そういう意味じゃないんです。ただね、折角お会いしたから、あなたのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]印象というものをきいてみたいんです」
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]というところは、不思議なところね。ひとを熱中させるところね――でも、わたしはまだ新聞ひとつよめないんだから……」
 はじめ元気よく喋り出して、間もなく素直に悄気た伸子を、その比田礼二という記者は、いかにも愛煙家らしい象牙色の歯をみせて笑った。
「新聞がよめないなんてのは、なにもあなた一人のことじゃないんだから、心配御無用ですよ。――ところで、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のどういう所が気に入りましたか? 新しいところですか――古さですか」
「私には、いまのところ、あれもこれも面白いんです。たしかにごたついていて、そのごたごたなりに、じりじり動いているでしょう? 大した力だと思うんです。何だか未来は底なしという気がするわ。――ちがうかしら……」
「…………」
「空間的に最も集約的なのはニューヨーク。時間的に最も集約的なのがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]……」
 比田は、ポケットから煙草ケースをとり出して、ゆっくり一本くわえながら、
「なるほどね」
と云った。そして、すこしの間だまっていたが、やがて、
「ところで、あなたはロシアの鋏ということがあるのを御存じですか」
ときいた。伸子は、そういうことばを、きいたことさえなかった。
「つまりあなたの云われる、ロシアの可能性の土台をなすもんなんですがね。ロシアは昔っから、ヨーロッパの穀倉と云われて来たんです。ロシアは、自分の方から主として麦を輸出して、その代りに外国から機械そのほかを輸入して来ていたんですがね、この交互関係――つまり鋏のひらきは、あらゆる時代に、ロシアの運命に影響しました。帝政時代のロシアは、その鋏の柄を大地主だった貴族たちに完全に握られていましてね。連中は、ロシア貴族と云えばヨーロッパでも大金持と相場がきまっていたような暮しをして、そのくせ、農業の方法だって実におくれた状態におきっぱなしでね。石油、石炭みたいなものだって、半分以上が外国人の経営だった、利権を売っちゃって。――そんな状態だからロシアの民衆は、自分たちの無限の富の上で無限貧乏をさせられていたわけなんです。――宝石ずくめのインドの王様と骸骨みたいなインドの民衆のようなものでね」
 儀礼の上から藤堂駿平を訪問したサヴォイ・ホテルのバラ色絹の張られた壁の下で、比田礼二に会ったことも思いがけなかったし、更にこういう話に展開して来たことも、伸子には予想されないことだった。
「この頃のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では、どこへ行ったっていやでも見ずにいられないインダストリザァツィア(工業化)エレクトリザァツィア(電化)という問題にしたってね。云おうと思えばいくらでも悪口は云えますよ。たしかに、先進国では、そんなことはとっくにやっちまっているんですからね――しかし、ロシアでは意味がちがう。これが新しいロシアの可能を決定する条件なんです。ともかく、まずロシアは一応近代工業の世界的水準に追いついてその上でそれを追い越さなくちゃ、社会主義なんて成りたたないわけですからね。『追いつけ、追いこせ』っていうのだって、ある人たちがひやかすように、単なるごろあわせ[#「ごろあわせ」に傍点]じゃないわけなんです」
 人間ぽい知的な興味でかがやいている比田礼二の眼を見ながら、伸子は、このひとは、何とモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいる誰彼とちがっているだろうと思った。それは快く感じられた。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいる日本人の記者にしろ、役人にしろ、伸子が会うそれらの人々は、一定の限度以上にたちいっては、ロシアについて話すことを避けているような雰囲気があった。その限度はきわめて微妙で、またうち破
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