りにくいものだった。
伸子は、知識欲に燃えるような顔つきになって、
「あなたのお話を伺えてうれしいわ」
と云った。
「それで――?」
「いや、別に、それで、どういうような卓見があるわけじゃありませんがね」
比田礼二は、それももちまえの一つであるらしい一種の自分を韜晦《とうかい》した口調で云った。
「――革命で社会主義そのものが完成されたなんかと思ったらとんでもないことさ――ロシアでだって、やっと社会主義への可能、その条件が獲得されたというだけなんです。しかも、その条件たるや、どうして、お手飼いの狆《ちん》ころみたいに、一旦獲得されたからって、その階級の手の上にじっと抱かれているような殊勝な奴じゃありませんからね」
それは、伸子にもおぼろげにわかることだった。ドン・バスの事件一つをとりあげても、比田礼二のはなしの意味が実証されている。
「これだけのことを、日本語できかして下すったのは、ほんとに大したことだわ」
伸子は、友情をあらわして、比田に礼を云った。
「わたしはここへ来て、随分いろいろ感じているんです。つよく感じてもいるの――」
もっともっと、こういう話をきかせてほしい。口に出かかったその言葉を、伸子は、変な狎《な》れやすさとなることをおそれてこらえた。比田礼二の風采には、新聞記者という職業に珍しい内面的な味わいと、いくらかの憂鬱さが漂っていた。
「気に入ろうと入るまいと、地球六分の一の地域で、もう実験がはじまっているのが事実なんですがね」
彼はぽつりぽつりと続けた。
「――人間て奴は、よっぽどしぶとい動物と見えますね、理窟にあっているというぐらいのことじゃ一向におどろかない」
彼は人間の愚劣さについて忍耐しているような、皮肉に見ているような複雑な微笑を目の中に閃かした。
「見ようによっちゃ、まるで、狼ですよ。強い奴の四方八方からよってたかって噛みついちゃ、強さをためさずには置かないってわけでね」
そのとき、人々の間をわけて、肩つきのいかつい一人の平服の男が、二人のいる壁ぎわへよって来た。
「――えらく、話がもてているじゃないか」
その男は、断髪で紺の絹服をつけている伸子に、女を意識した長い一瞥を与えたまま、わざと伸子を無視して、比田に向って高飛車に云いかけた。
比田はだまったまま、タバコをつけなおしたが、その煙で目を細めた顔をすこしわきへねじりながら、
「まあ、おかけなさい」
格別自分のかけている椅子をどこうともしないで云った。三人はだまっていた。すると、比田がその男に、
「――飯山に会われましたか」
ときいた。
「いいや」
「あなたをさがしていましたよ」
「ふうむ」
なにか思いあたる節があるらしく、その男は比田から火をもらったパイプをくわえると、大股に広間の方へ去った。
「何の商売かしら――あのかた……」
そのうしろ姿を目送しながら伸子がひとりごとのように云った。
「軍人さん、ですよ」
やっぱりその肩のいかつい男のうしろ姿を見守ったまま、伸子の視線は、スーと絞りを狭めたようになった。秋山宇一が、われわれは、こまかく見られている[#「こまかく見られている」に傍点]、と云った、そのこまかい[#「こまかい」に傍点]目は、こういう一行のなかにもまぎれこんでいるのだろうか。
伸子は、やがてかえり仕度をしながら、
「ここよりベルリンの方がよくて?」
と比田礼二にきいた。
「さあ、ここより、と云えるかどうかしらないが、ベルリンも相当なところですよ、このごろは。――ナチスの動きが微妙ですからね。――いろいろ面白いですよ。ベルリンへはいつ頃来られます?」
「まるで当なしです」
「是非いらっしゃい。ここからはたった一晩だもの。――案内しますよ。僕が忙しくても、家の奴がいますから……」
「御一緒?」
「――ドイツで結婚したんです」
その室の入口のドアまで送り出した比田礼二と、伸子は握手してわかれた。
藤堂駿平の一行で占められているサヴォイ・ホテルの奥まった一画から、おもての方へ深紅色のカーペットの上を歩いて行きながら、伸子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいる同じ新聞の特派員の生活を思いうかべた。その夫婦は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の住宅難からある邸の温室を住宅がわりにして、そのガラス張りの天井の下へ、ありとあらゆるものをカーテン代りに吊って、うっすり醤油のにおいをさせながら暮しているのだった。
棕梠の植込みで飾られたホテルの広間から玄関へ出ようとするところで、
「おお、サッサさん、おめにかかれてうれしいです」
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]には珍しい鼠色のソフトを、前の大きくはげた頭からぬぎながら伸子に向って近よって来るクラウデに出あった。一二年前、レー
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