ニングラードの日本語教授コンラード夫妻が東京へ来たとき、ひらかれた歓迎会の席へ、日本語の達者な外交官の一人としてクラウデも出席していた。黒い背広をどことなしタクシードのような感じに着こなして、ほんとに三重にたたまってたれている顎を七面鳥の肉髯のようにふるわしながら流暢《りゅうちょう》な日本語で話すクラウデの風※[#「耒−人」、第3水準1−14−6]《ふうぼう》は、そのみがきのかかり工合といい、いかにも花柳界に馴れた外国人の感じだった。その席でそういう印象を受けたぎり、人づき合いのせまい伸子は、いつクラウデがロシアへかえったのかもしらなかった。
ところが、伸子がこっちへ来てから間もないある晩、芸術座の廊下で声をかけた男があった。それがクラウデであった。三重にたたまっておもく垂れた顎をふるわしてものをいうところは元のままであったが、そのときのクラウデには、東京で逢ったときの、あの居心地わるいほどつるつるした艷はなくなっていた。彼の着ている背広もあたりまえの背広に見えた。クラウデはまた日本文学の夕べにも来ていた。そして、いま、またこのサヴォイ・ホテルの廊下で出あったのだった。クラウデは、愛嬌のいい調子で、
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の冬、いかがですか」
と云った。
「あなたのホテルは煖房設備よろしいですか」
「ええ、ありがとう。わたしは、冬はすきですし、スティームも大体工合ようございます。あなたは、日本の冬を御存じだから……」
伸子はすこし別の意味をふくめて、ほほ笑みながら云った。
「日本の雪見の味をお思い出しになるでしょう?」
「おお、そうです。ユキミ――」
クラウデは、瞬間、遠い記憶のなかに浮ぶ絵と目の前の生活の動きの間に板ばさみになったような眼つきをした。しかしすぐ、その立ち往生からぬけ出して、クラウデは、
「サッサさん、是非あなたに御紹介したいひとがあります。いつ御都合いいでしょうか」
と云った。伸子は語学の稽古や芝居へゆく予定のほかに先約らしいものもなかった。
「そうですか、では、木曜日の十五時――午後三時ですね、どうかわたしのうちへおいで下さい」
クラウデは小さい手帖から紙をきりとって伸子のために自分の住所と地図をかいてわたした。
ボリシャーヤ・モスコウスカヤと並んで、大きく古びたホテル・メトロポリタンの建物がクレムリンの外壁に面してたっていた。約束の木曜日に、伸子はその正面玄関の黒くよごれた鉄唐草の車よせの下から入って行った。もとはとなりのボリシャーヤ・モスコウスカヤのように派手な外国人向ホテルだったものが、革命後は、伸子の知らないソヴェトの機関に属す一定の人々のための住居になっている模様だった。受付に、クラウデの書いてよこした室番号を通じたら、そこへは、建物の横をまわって裏階段から入るようになっていた。伸子は、やっとその説明をききわけて、大きい建物の外廓についてまわった。
積った雪の中にドラム罐がころがっているのがぼんやり見える内庭に向って、暗い階段が口を見せていた。あたりは荒れて、階段は陰気だった。冬の午後三時と云えば、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の街々にもう灯がついているのに、ホテルの裏階段や内庭には、灯らしい灯もなかった。伸子は、用心ぶかくその暗い階段を三階まで辿りついた。そこで、踊り場に向ってしまっている重い防寒扉を押して入ると、そこは廊下で、はじめて普通の明るさと、人の住んでいる生気が感じられた。でも、どのドアもぴったりとしまっていて、あたりに人気はない。伸子は、ずっと奥まで歩いて行って、目ざす番号のドアのベルを押した。靴の音が近づいて来て、ドアについている戸じまりの鎖をはずす音がした。ドアをあけたのはクラウデであった。
「こんにちは――」
「おお、サッサさん! さあ、どうぞおはいり下さい」
そういうクラウデの言葉づかいはいんぎんだけれども、上着をぬいで、カラーをはだけたワイシャツの上へ喫煙服をひっかけたままであった。クラウデは日本の習慣を知っている。日本の習慣のなかで女がどう扱われているかということを知りぬいている外国人であるだけ、伸子はいやな気がして、
「早く来すぎたでしょうか」
ドアのところへ立ったまま少し意地わるに云った。
「たいへんおいそがしそうですけれど……」
「ああ、失礼いたしました。書きものをしていまして……」
クラウデは、腕時計を見た。
「お約束の時間です――どうぞ」
伸子を、窓よりの椅子に案内して自分は、二つのベッドが並んでおかれている奥の方へゆき、そっちで、カラーをちゃんとし上衣を着て、戻って来た。
「よくおいで下さいました。いまじき、もう一人のお客様も見えるでしょう」
クラウデの住んでいるその室というのは奇妙な室だった。大き
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