くて、薄暗くて、二つのベッドがおいてあるところと、伸子がかけている窓よりの場所との間に、何となし日本の敷居や鴨居でもあるように、区分のついた感じがあった。窓の下に暮れかかった雪の街路が見え、アーク燈の蒼白い光がうつっている。窓から見える外景が一層この室の内部の薄暗さや、雑然とした感じをつよめた。黙ってそこに腰かけ、窓のそとを眺めている伸子に、クラウデは、
「わたしは、ここにブハーリンさんのお父さんと住んでいます」
と云った。
「ブハーリンさん、御存じでしょう? あのひとのお父さんがこの室にいます」
伸子はあきらかに好奇心を刺戟された。伸子がよんだたった一つの唯物史観の本はブハーリンが書いたものであったから。
「ブハーリンの本は、日本語に翻訳されています」
伸子は、ちょっと笑って云った。
「お父さんのブハーリンも、やっぱり円い頭と円い眼をしていらっしゃいますか?」
単純な伸子の質問を、クラウデは、何と思ったのかひどく真面目に、
「ブハーリンさんのお父さんは立派な人ですよ」
と、なにかを訂正するように云った。
「わたしたちは、一緒に愉快に働いています」
しかし、伸子はちっとも知らないのだった、三重顎のクラウデが、現在モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でどういう仕事に働いているのか。――
クラウデは、ちょいちょい手くびをあげて時計を見た。
「サッサさん、もうじき、もう一人のお客様もおいでになります。わたくし、用事があって外出します。お二人で、ごゆっくり話して下さい。……それでよろしいでしょう?」
クラウデにとってそれでよいのならば、伸子は格別彼にいてもらわなくては困るわけもなかった。
「いま来るお客さま、中国のひとです。女の法学博士です」
そのひとが伸子に会おうという動機は何なのだろう。
「でも、わたしたち――そのかたとわたし、どういう言葉で話せるのかしら――わたしのロシア語はあんまり下手です」
「そのご心配いりません。英語、達者に話します」
また時計をみて、クラウデは椅子から立ち上った。
「御免下さい。もう時間がありませんから、わたくし、失礼して仕度いたします」
薄暗い奥の方で書類らしいものをとりまとめてから、クラウデは低い衣裳箪笥の前へもどって来た。そこの鏡に向って、禿げている頭にのこっている茶色の髪にブラッシュをかけはじめた。はなれた窓ぎわに、クラウデの方へは斜めに背をむけて伸子がかけている。その目の端に思いがけないピノーのオー・ド・キニーヌの新しい瓶が映った。伸子は駭《おどろ》きににた感じをうけた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、この雑然として薄暗い独身男の室で、子供のときから父親の匂いと云えば体温にとけたその濃く甘い匂いしか思い出せないオー・ド・キニーヌの真新しい瓶を見出したのは意外だった。この化粧料はあたりまえではモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で買うことの出来ないものでもある。柘榴《ざくろ》石のように美しく深紅色に輝いて鏡の前におかれているオー・ド・キニーヌの瓶は、父を思い出させるだけ、よけい伸子に、クラウデの生活をいぶかしく思う感情をもたせた。舶来もののオー・ド・キニーヌ。そして、ブハーリンさんのお父さん。それらはみんなクラウデと、どんなゆきがかりを持っているのだろうか。伸子のこころに、えたいのしれないところへ来たという感じが段々つよくなりかかった。そのとき、大きなひびきをたてて入口のベルが鳴った。
「ああ、お客様でしょう」
出て行ったクラウデは、やがて一人の茶色の大外套を着た女のひとを案内して戻って来た。襟に狼の毛のついた外套をぬぎ、頭をつつんでいた柔かい黒毛糸のショールをとると、カラーのつまった服をつけた四十近い婦人が現れた。男も女も頬っぺたが赧くて角ばった体つきのひとが多いこのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、その中国婦人の沈んだクリーム色の肌や、しっとりと撫でつけられた黒い髪は伸子の目に安らかさを与えた。
時間を気にしているクラウデは、あわただしくその中国婦人と伸子とをひきあわせた。
「リン博士です。このかたの旦那様、やっぱり法学博士で、いまはお国へかえっておられます」
リンという婦人に、クラウデはロシア語で紹介した。
「お話しした佐々伸子さん。日本の進歩的な婦人作家です」
そして、リン博士と伸子とが握手している間に、
「では、どうぞごゆっくり」
と、クラウデは、外套を着て室から出て行った。
やっと、きょうここへ来た目的がはっきりして、同じ薄暗く、ごたついた室にいても伸子は気が楽になった。伸子は、ほぐれくつろいでゆく心持から自然に、にっこりして、リン博士を見た。
「…………」
伸子の人なつこいその気分を、聰明らしい落付いた眼のな
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