ソな口元をむすんで、返事しない。
「だれもとめてやしないんだから、出かけたらいいじゃないか。小枝さんをごらんなさい。もうさっきからすっかり支度ができて、お待ちかねですよ」
多計代の云いかたには、小枝のために、伸子を苦しくさせる響きがあった。きかないふりをしている小枝の、おとなしい顔が、案の定こころもち赧《あか》らんだ。小枝は、ちょっと居場所のないような身のこなしをしたが、
「おかあさま、お召をそろえましょうか」
つとめて、話題をかえるように云った。
「どれをだしましょう」
「そうねえ、夕方までは、どうせどこへも出ないんだから何でもいいけれど。――あの裏葉色の裾模様はどこに入れたっけ」
「さあ。――船で召さなかった新しい方のでしょう?」
小枝はこまったように、
「大トランクの方だったように思いますけれど――見ましょう」
大トランクというのは、控間の方に置いてある鋲うちの入れものの方だった。
伸子は、小枝について控間に出て行った。そして、正直に自分でトランクの鍵をあけようとする小枝をとめて、大きい声で、
「和一郎さん、ちょっと来て」
とよんだ。
「鍵がうまくまわらない」
和一郎が来て、トランクの鍵はもとよりすぐあいた。伸子は、多計代にきこえない小声で和一郎に云った。
「あなたまで不機嫌にしていちゃ、小枝ちゃんはどうしていいかわかりゃしないことよ。――出かけなさい。ひきうけるから。――いい?」
和一郎は、
「うん」
と云った。
「夕方ちょっとかえっていらっしゃいね。そして、おかあさまたちを送り出してから、みんなで夕飯に出かけましょう」
「ああ」
「さ、行った方がいいことよ」
和一郎はそのまま控間から出て自分たちの部屋へ帽子をとりに行った。しかし、小枝はそれについて一緒に行こうとせず、一人だけのこって大トランクにかがみこみ、つまれた衣類を一枚一枚丁寧にわきへどけながら、云われた着物を見つけようとしているのだった。
「これだけの中を、ほじくりかえすのじゃ、とてもだわ。いいわよ、小枝ちゃん、わたしがあとでゆっくり見ておいてあげるから」
小枝の気づかいがひどくて、伸子は見かねた。同時に、多計代との間にそういう習慣をつくり出してしまった和一郎や小枝その人に対して、はがゆい気持が湧いても来る。伸子はこっちの部屋から、
「それでいいでしょう?」
と寝室の多計代に声をかけた。
「ついでに、キモノ展覧会をしていただくわ。よくこんなにもって来られたこと」
そこへ和一郎が帽子をもって入って来た。
「そら小枝さん」
こんどは多計代が、和一郎の機嫌をとり結ぼうとしてトランクのところにいる小枝をせきたてた。
「あなたも早く帽子をかぶっておいでなさいよ。和一郎さんは、もうそれで出られるんだろう?」
「ああ」
「もういいから。――小枝さん」
やっと若い一組が外出した。
多計代は、
「やれ、やれ、相もかわらずひと騒動だ」
と椅子にもたれこんだ。
「小枝さんてひとは、ほんとに何をさせてもお姫様のなぎなた[#「なぎなた」に傍点]だからねえ」
甲斐性がなくて、ずるずるしているというわけらしかった。伸子には、あんなに美しく、樹のぼり上手と云われていた女学生の小枝が、嫁という立場では全く自信をなくして、おどおどしている様子ばかり目にはいるのだった。
ひとやすみしてから、多計代は化粧台に向きなおってゆっくり化粧にとりかかった。毛のさきをぷつんと短くきった細筆のさきに桐をやいてこしらえた軽い墨をつけて、両眉をかわりばんこにもち上げて、口をすぼめるような表情で鏡を見ながら眉を描く手つき。手鏡を顔ちかくよせて、仕上りをしらべるまじめな顔つき。実の娘の伸子の前では、多計代ものんびりと一人きりのように化粧に専念している。伸子も、何年ぶりかで母の化粧するのをわきから見ていて、その家庭的な情景を珍しく、ある興味をもって意識するのだった。
素子はさっきから、ぎごちない空気のみなぎっている寝室をさけて、控間の露台に出て行っていた。そこからはディエナ通が見おろせた。つや子も素子について、そっちにいる。
そばでみると、多計代の髪は随分白くなっていた。それを、上から黒チックで黒くして、前髪のつまった束髪に結っているのだったが、黒チックは多計代の形のいい額の生えぎわをきたなくしているようだった。伸子は、
「おかあさま、もしかしたら、そのチックやめてみたら」
と云った。
「地のまんまの方が立派じゃないかしら。血色のさえた顔色をしていらっしゃるんだから、かえって引立つと思うけれど……」
「さあねえ……」
伸子のいうことには賛成できない風で手鏡を見ていた多計代は、一遍化粧台の上においた眉筆をまたとりあげた。そして、両方の眉のはじまりのところを、すこしずつ強く黒くした。そうす
前へ
次へ
全437ページ中239ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング