ソの生活が、みんなにとって、どんなものであるかということを伸子にさとらせたのだった。
渡橋《ガング・ウェー》のとりつけられるのを待ちかねて、伸子は船へのぼって行った。
二
トロカデロの広場から、トウキオと名づけられているセイヌ河岸へ出る間にあるディエナ通は、役所町じみたしずけさで、プラタナスの繁った歩道の左側に、古くさく、イルミネーションつきのホテル・アンテルナシオナールの車よせがつき出ている。
おそらくこのホテルは、エッフェル塔がトロカデロに建てられた一九〇〇年のパリ大博覧会のころ、各国から集って来た各種各様の客のために国際《アンテルナシオナール》という名をつけて開業されたにちがいなかった。ここがパリへ来る日本人の一時の定宿のようになって、ホテルの数少い召使たちが、日本の男の浴衣《ゆかた》がけの姿にもおどろかないような風になったのは、いつごろからだろう。ホテルに近いセイヌ河岸にトウキオという名がついているところをみれば、それはヨーロッパ大戦以後のことらしかった。ディエナ通がエッフェル塔とトウキオ河岸の間にあって、迷子になりにくい位置だし大使館から遠くない上にシャンゼリゼをふくむグラン・ブルヴァールにも近く、そんな場所に在るにかかわらず気やすい三流ホテルだということから、いつの間にかパリへ来る日本人の一時の定宿のようになってしまったのだろう。
伸子と素子とは、間口ばかりはこけおどしに広くて、奥ゆきの浅いそのホテルの建物の正面階段を三階へのぼって行った。そして、金色のハンドルのついた白塗り両開きの大扉をノックした。
ドアをあけたのは小枝だった。帽子をかぶればそれでもういつでもいいだけの外出姿で、しぶい色のバラ模様のジョーゼットの服が小枝ののびやかに若々しい体に美しく似合っている。小枝は、
「あら! お早う!」
うれしそうに伸子の手にさわった。
「よくこんなに早くいらっしゃれてね」
小枝は、すぐそこから奥の寝室に向って、
「おかあさま。素子さんとお姉さまがいらっしゃいました」
と告げた。つや子が駈けて来た。白いブラウスに草色のスカートをつけて。ふとりすぎた十三歳の少女のつや子に、草色の服はいなかくさかった。つや子は、だまって伸子にすがりついた。
「どうしたの? どっかへお出かけ?」
「わからない」
つや子にからみつかれたまま伸子たちが通りぬけるがらんとした控間のすれた赤いカーペットの上には、二つの大きい鋲うちの航海用トランク、泰造用のインノヴェーション・トランク、そのほか大トランク、小トランク、荷物の山がある。奥の寝室には、夫婦のための二つの寝台のほかに、もう一つ、つや子のベッドまで入れてあって、どの寝台も起きたままだった。ひろい部屋じゅうは混雑していて、引越し最中のように落付かなかった。椅子の上に、多計代の手まわりのスーツ・ケースがふたをあけてのせてあった。多計代は、ねまきの手綱染めの単衣《ひとえ》の上に伊達巻をしめた姿で、化粧台に背をもたせ、もう一つの椅子に素足の両足をのせていた。泰造は一つのベッドの上にはすにかけ、和一郎は、窓じきりにもたれて、むっつりとした表情でいる。
三人のそんな様子、小枝のよろこびかた。マルセーユでうちのものと一緒になってからきょうで四日目の伸子には、およそのいきさつが察しられるようになった。伸子は、
「お早うございます」
あっさり父親に挨拶して、多計代のそばへよって行った。
「いかが? お眠れになって? つかれは?――ゆっくりしてごらんになると、やっぱり相当でしょう?」
「ああ、お早う。よく来られたね」
素子に向って多計代は、
「ごめんこうむりますよ、脚がむくんでしまって痛いもんだから」
と、椅子に足をのばしている云いわけをした。
「どうぞ、どうぞ」
多計代は、髪を結ったばかりでいるけれども、泰造も和一郎もきちんとした服装だった。朝飯はすまされ、コーヒー道具が、壁ぎわのテーブルに片よせてある。
「さて、それじゃ伸子も来てくれたから、わたしはそろそろ出かけますよ」
泰造が、そう云ってベッドから立った。多計代は、椅子の上に足をのばしたまま、視線を泰造の動きにからませて、
「あなた、それで、何時ごろお帰りです?」
ときいた。
「早めに帰っていただかなけりゃ。豊原さんたちのお迎えが何時ごろ来るのか、わたしは伺っていませんよ」
「大丈夫だ、夕方までには帰ります」
泰造が控間で身じたくして出てゆくと、多計代は、
「さあ、あなたがたも出かけたらいいだろう」
不機嫌に窓ぎわに立っている和一郎に云った。伸子が日本にいたころの和一郎は、美術学校の最上級生だった。この春卒業して、父の事務所につとめはじめた。和一郎は、若い良人らしく大人びた。和一郎は、純白のカラーの上に、神経
前へ
次へ
全437ページ中238ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング