H堂に用意されていたのは、簡単ながら一つの宴会だった。
「どうも、こりゃ恐縮だな」
いくぶん迷惑そうに日本語でそういう誰かの声がきこえた。案内の役人は、特に女である伸子たちに、
「どうぞ《ビッテ》、どうぞ《ビッテ》、席におつき下さい」
自分が立っている真向いの席をすすめた。食堂には五六人の雑役が給仕のために配置されている。灰色服に灰色囚人帽の彼らは軍隊式な気をつけの姿勢で、テーブルから一定の距離をおいて直立しているのだった。どの顔にも、外来者に対するつよい好奇心がたたえられていた。伸子が、その示された席に腰をおろそうとしたとき、うしろに立っていた若い一人の雑役が、素早い大股に一歩ふみ出して、伸子のために椅子を押した。
みんな席について、さて格式ばった双方からの挨拶が短くとりかわされて、見学団一行の前に、ジャガイモとキャベジの野菜シチューの深皿が運ばれて来た。
「これがきょうの囚人たちの昼飯だそうです。さっき廊下を通られたとき配給されていたのと全くおなじものだそうです」
役人のとなりに席を与えられた幹事の津山進治郎がみんなに説明した。同じもの[#「同じもの」に傍点]……と心につぶやいた。同じもの――そう――でも、何と別なものだろう。伸子は、えづくように、バシャバシャいっていたあの音を思い浮べた。
「ほかに御馳走はありませんが、この皿はどうかおかわりをなすって下さるように、ということです。なお、いまここに出ているものは、みんな囚人たちのたべるものばかりだそうです」
真白い糊のきいたクローズをかけたテーブルの上には、各人にパンの厚いきれとバターがおかれているほか、皿にのせられたチーズの大きい黄色いかたまり。四角いのと円い太いのとふた色のソーセージを切ってならべた大皿。ガラスの壺にはいった蜂蜜。菓子のようにやいたもの、干果物などがならべられている。これはみんな囚人たちのたべるもの――でも、それは、いつ、どれを、どれだけの分量で、彼ら一人一人に与えられるというのだろう。客たちが説明され、そしてたべるのをじっと目をはなさず見守っている雑役たちの瞳のなかに、伸子は、彼らが決してこういうものをいつもたべているのでない光を認めずにいられなかった。雑役たちは、じっと視線をこらして客のたべるのを見ている。全身の緊張は、いつの間にか彼らの口の中が、つばでなめらかになっていることを語っていた。テーブルの上にのっているものはみんなお前たちのものだと云われながら、現実にはそれの一片にさえ自由に手を出すことを許されていない人々に給仕され、見まもられて、客としてそれらを食べることは、何という思いやりのない人でなしのしうちだろう。姿勢を正して立っている雑役たちの眼の表情に習慣になっているひもじさ[#「ひもじさ」に傍点]があらわれている。皮肉も嘲笑も閃いていない。そのことが、一層伸子を切なくした。その明るい未決監獄の客用食堂の光景は静粛で、きちんとしていて諷刺画の野蛮さがかくされていた。
このアルトモアブ街の未決監獄からのかえり、伸子はすぐ下宿へもどらず素子と二人、ながいこと西日のさすティーア・ガルテンの自然林の間を散歩した。こんなとき、伸子たちが川瀬たちとの約束にしばられず二人ぎりで行動できることはよかった。
伸子たちはまた同じ木曜会の一行に加って、ベルリン市が世界に誇っている市下水事業の見学もした。下水穴へ、日本人が一人一人入ってゆくのを通行人がけげんな目で見てとおり過る大通りのわきの大型マンホールから、鉄の梯子を地下数メートル下って行ったら、そこがコンクリートのトンネル内で河岸のようになっていた。湿っぽい壁に電燈がともっている。その光に照らされて、幅七八メートルある黒い川が水勢をもって流れていた。それは、ベルリンの汚水の大川だった。自慢されているとおり完全消毒されている汚水の黒い大川からは、これぞという悪臭はたっていない。ただ空気がひどく湿っぽく、皮膚にからみつくようなつめたさと重さだった。大都会の排泄物が清潔であり得る限界のようなものを、伸子は、その大下水の黒い水の流れから感じた。
こうして、伸子と素子とは川瀬や中館たちが彼女たちに見せるものとはまるでちがったベルリンの局面を見学するのであったが、案内する津山進治郎にとって、こういう見学は云わば公式なものというか、木曜会の幹事という彼の一般的な立場からのものだった。津山進治郎自身としては、もっとちがった、もっと集中的な題目があった。それは「新興ドイツ」の再軍備についての彼の関心である。
十一
ウィーンに滞在していた間、伸子はそこの数少い日本人たちが、公使館を中心にかたまっているのを見た。ものの考えかたも、汎ヨーロッパ主義だとか、ソヴェトに対する云い合わせたような冷淡さと
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