ス撥と、オーストリアの社会民主党政府の、そのときの調子とつりあった外交団的雰囲気にまとまっているようだった。ベルリンへ来たら、伸子は寸刻も止らず動いている大規模で複雑な機構のただなかにおかれた自分を感じた。ベルリンにいる日本人にとって大使館はウィーンの公使館のように、そこにいる日本人の日常生活の中心になるような存在ではなく、大戦後のインフレーション時代からひきつづいてベルリンに多勢来ている日本人は、めいめいが、めいめいの利害や目的をもって、互に競争したり牽制しあったりしながらも、じかにベルリンの相当面に接続して動いているのだった。だから、噂によれば医学博士としてベルリンで専心毒ガスの研究をしているという津山進治郎がドイツの再軍備につよい関心を抱き、一方に同じ日本人といっても川瀬勇や中館公一郎のグループのように、映画や演劇、社会科学と国際的なプロレタリア文化運動に近く暮している一群があることは、とりもなおさずベルリンの社会の姿そのものの、あるどおりのかたちなのだった。
 ある午後、伸子はいつものとおり素子とつれだってドイツ銀行へ行った。文明社から伸子のうけとる金が来た。不案内で言葉も不自由な二人は手続が前後して、二度ばかり一階と三階との間を往復しなければならなかった。百貨店を思わせるほど絶え間ない人出入りのある一階正面で、上下しているエレベータアには、手間と時間をはぶくというベルリン流の考えかたからだろう。ドアもなければ、それぞれの階で止まってゆくという普通の方法もはぶかれていた。エレベータアにのるものは、あけっぱなし無休止の箱《ケージ》が自分たちの前へゆるくのぼって来たり下って行ったりした瞬間をとらえて、せわしくその中へ自分をいれるのだった。その乾きあがった気ぜわしさがどうにもなじめなくて、伸子は一台の箱《ケージ》をやりすごしたまま、立っていた。折から下りて来たエレベータアの箱《ケージ》が、床からまだ十数センチもはなれて高いところにあるのにそれを待てないで、とじあわせの紙をヒラヒラさせながら若い一人の行員がその中からとび出て来て、半分かける歩調で窓口の並んだホールの奥へ姿を消して行く。必要以上に全身の緊張を感じて箱《ケージ》へ入るとき、必要以上に脚をもち上げるような動作で伸子と素子はやっと三階へ往復する用事をすませた。そしてほっとして窓口のならんでいる一階のホールへ行ったときのことだった。大理石の角柱がたち並んだ下に重りあってこみあって動いている外国人のあまたの顔の間から、伸子はちらりと一つの日本の顔を発見した。伸子は、
「あら」
 小さく叫んで素子の手にさわった。
「あすこにいるの、笹部の息子じゃない?」
 そう云うひまも伸子の視線は、人ごみをへだてて、一本の角柱の下に見えがくれするその特徴のある日本の顔を追った。伸子は異様な錯覚的な感覚にとらわれた。見もしらない、よそよそしい外国人の顔に満ちているこの雑踏のなかに、偶然、写真ながら伸子が少女時代から見馴れている文豪笹部準之助の顔があったことは、伸子の感情をとまどった興奮で波だたせた。笹部準之助がなくなってから、その長男が音楽の勉強にベルリンへ来ているということは、きいていた。ゆたかな顎の線と眼の形に特徴があって、笹部準之助の晩年の写真には、渋くゆたかな人間の味が一種の光彩となり量感となってたたえられていた。伸子は、その人の文学の世界への共感というよりも、その人を囲んだ人生のいきさつとして、心にうごくものなしに、その写真を見ることができなかった。
 笹部準之助その人がなくなってから、夫人の思い出が発表された。それには、夫人の現世的でつよい性格がにじみ出ていた。良人である明治大正の文学者笹部準之助が自身の内と外とに、ヨーロッパ精神と東洋、特に日本の習俗との矛盾や相剋を感じながら生きていた、その内面のこまかい起伏に対して、妻として、むしろわけもわからず気むずかしい人としてだけ語られていた。
 笹部準之助の文学の世界に目を近づけてみれば、そこには男女の自我の葛藤が解決を見出せないままに渦巻いている。伸子は、相川良之介の、遂に生き得なかった脆《もろ》く美しい聰明に抗議を抱いて生きる一人の女であった。それと同時に、もう一つ前の時代の笹部準之助の文学が、無解決のまま渦の巻くにまかせてそれを観ている人生態度にも服さないで、自分の生活で、きょうの歴史には別の道をきりひらく可能があるということをたしかめたくねがっている女である。ベルリンの機械化されたテンポに追い立てられて、まごつきながら抵抗を感じ、不機嫌な表情でドイツ銀行のホールに現れた伸子は、せっかちぎらいの気持でいっぱいになっていた。そこへはからず笹部準之助そのままの顔だちを見つけた瞬間、伸子の感情のつりあいはやぶれて、いきなり自分が人生
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