ワした。御案内しませんでしたか――例会の前にちょっと報告していたもんですから、失敬しました」
伸子と素子とは、大きなテーブルの一方の端に並んだ席を与えられた。落付くと素子は例によってタバコをだした。そして、口をきかないまま隣席の人に向ってちょいと頭を下げて火をもらい、男連がどう思おうとかかわりない風でそれをうまそうにくゆらしながら、古風なベルリンごのみでいかつく装飾されている室内とそこに集っている人々をひっくるめた視野においている。人々の間にかけてみると、一座の親しみにくい雰囲気は、一層具体的な感じで伸子をしめつけた。みんな学問をしているはずの人々だのに、その室内の空気はどこまでもかたくて、妙に粗くて、浸透性をかいている。伸子はテーブルにおいていたハンド・バッグを膝の上におろして、小さいハンカチーフをとり出した。彼女はそのハンカチーフで、そっと力を入れててのひらを片方ずつこすった。
やがて津山進治郎が、雑談の中止を求める意味で手を鳴らしながら立ち上った。そして、格式ばって講演者としての伸子を紹介した。津山進治郎にとって伸子はベルリンで初対面した母方のまたいとこ[#「またいとこ」に傍点]であったが、津山進治郎はそういう個人的な点にはふれないで、小説をかく佐々伸子、日本の民間婦人としてはじめてソヴェト生活を経験して来たものとして紹介した。
「このたび各国視察旅行の途中、ベルリンに来られたのを機会に、今晩は一席ソヴェト同盟の医療問題について、話を願った次第です。御清聴をわずらわします」
それをきいて、伸子は思わず心の中でつぶやいた。
「そんな医療問題なんて――、わたしこまっちゃう」
津山進治郎が木曜会の例会に伸子をよんだとき、彼はそんないかめしい専門の区分はつけて話をするようにとは云わなかった。おおまかにソヴェトの生活について、ということだった。伸子はそれならば、とあながち自分にできないこととも思わなかったのだった。
何だか心やすさのない室内の空気だったわけも、伸子にのみこめた。小説をかく佐々伸子が、ソヴェトを見て来たというだけでベルリンの専門家に医療問題を話すときかされれば、軽い反撥もおこるだろう。話のきっかけがむしろそこにつかめた気持で、伸子は案外自然に口をひらくことができた。何よりも、自分には、医学上の専門のことは何もわかっていないこと。従って、伸子としては実際に見聞したソヴェト――主としてモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の日常生活の有様を、ありのままに話して参考になればと思っているという点を明瞭にした。伸子はソヴェトの工場やそこで見た医療設備のこと、労働組合と健康保護の関係、母子健康相談所やレーニングラードの母性保護研究所の仕事、労働者、特に婦人労働者の保健のために職場で行われている一分体操や休養室の細かい注意、海岸や温泉地につくられている休みの家の様子などについて話した。座談的な伸子の話は、おさないような云いまわしながら、どの一つをとっても、それはみんな彼女が心を動かされて自分の眼で見て来ているものであり、ソヴェト生活の現実から生々しくきりとられて来た、誰にもわかる報告なのであった。
話がすすみ、まざまざとした印象がよみがえって描写されてゆくにつれて、伸子は心の自由をとりもどした。話している伸子にも聴きての感興が集中されてゆくのが感じとられる刹那もあった。
最後に、伸子は自分が肝臓炎でついこの四月まで、三ヵ月も入院していたモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学附属病院の生活を話した。いかにもソヴェトの病院らしい事実は、ナターシャのことだった。熟したはたん杏のような頬っぺたをして、ずんぐりした身持ちの看護婦ナターシャと伸子とが、どんなに滑稽に車輪付椅子のまわりで抱きあいながらもごもごしたか。患者である伸子が、それについてどんな癇癪を起したか。やがて、身持ちのナターシャが、健康で美しく働いているのを見たり彼女と話したりすることが、伸子の病床生活の一つの歓びとなったいきさつについて、ナターシャはコムソモールカであり、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学医科の労働者科《ラブ・ファク》二年生であることをも添えて伸子は新鮮に話した。
「みなさまは、あちこちで立派な病院をどっさり御存知でございましょうし、御自分でそういう病院をおもちかもしれません。よく訓練された看護婦というものも珍しくおありになるまいと思います。けれど、このナターシャの看護婦としての生活ね、わたくしは女ですから、やっぱり深く感銘いたしました。ドイツの人は音楽好きと云われますけれど、このナターシャたちのように、国立音楽学校のバリトーンの学生の若い細君が大学附属病院の看護婦だというような組合わせは、あんまりないでしょうと思い
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