ワす」
 四十分あまり、変化をもって話しつづけて来た伸子は、そこで絶句した。ナターシャのことまで話して来るうちに、伸子の心にいろいろの思いが湧いた。めいめいが偉くなることを目的としているような従来の医学の道について、その本質をくつがえす一言を呈したい気持になって来た。
 頭上から強い光をうけているせいで断髪の頭や、ゆるやかな頸から肩への輪廓が緊《しま》ってなお小柄に見える伸子は、影を絨毯の上におとしながら、首をかしげてちょっとの間黙って考えていた。適切な表現が見つからなかった伸子は実感のままを率直に、
「わたくしが最もつよく感じたのは、ソヴェトで医学は、ほんとにすべての人の生活をまもるために役立てられようとしているということです。もちろんまだいろいろ不備な点はあって、たとえば、歯医者が下手で痛いという漫画が出たりもして居りますけれど、それにしろ、医学は、どんどん生活のなかへ普及して居ります。すべての国で医学が、そういう本来の働きを発揮できるように、お医者さまというものが、ほんとに苦しんでいる人間の燈台となれるように、そういう社会がつくられてゆくことが、医学の側からも求められていいのだと思います」
 そう結んで、また一二秒だまった。が、ぽつんと、
「わたくしの話はこれでおしまい」
 一つお辞儀をして伸子は席に復した。
 三四十人ほどの聴きての間から、儀礼的でない拍手が与えられた。あきらかに、伸子の話は、自然さといきいきした事実とによって、ききてに人間らしい感銘を与えたのだった。
「や、御苦労さまでした」
 色の黒い太い頸に、うすくよごれの見えるソフト・カラーをしめた津山進治郎が立って挨拶した。
「具体的で、得るところがあったと思いますが、例によって、どうぞ諸君から自由に質問を出して下さい」
 伸子があんまり素人だから、専門家であるききてとしては、かえってききたいことがないのだろう。ややしばらくはタバコの煙があっちこちからあがるばかりであった。その沈黙をやぶって、伸子の右側にいた六十がらみの人が、チョッキの前でプラチナの時計の鎖をいじりながら、
「どういうもんかね、これで。――いまの話で、社会的な面はどうやらわかったようなもんだが」
と、そこへ伸子にわからないドイツ語をさしはさんで、
「そっちの方面は低いんじゃないのかね」
 臨床の大家といわれる医者によくあるように少し鼻にかかった声でゆっくり、じかに伸子に向うというのでもなく云った。この額の四角い半白の人は、伸子が話しはじめたときから終るまで、腕組みをして椅子の背にもたせた顔を仰向けたなり目をつぶっていた。
「どうですか、佐々さん」
 幹事の津山が、伸子には横柄に感じられたそのひとの間接の質問をとりついだ。
「あっちの、医学そのものとしてのレベルは、どうです? 現在はやっぱり相当のものだと思いますか」
「――?」
 伸子はのみかけていた番茶の茶碗をテーブルの上において、顔の上に意外そうな表情をむき出しながら津山から一座の人々へと目をうつした。
「わたしにそんなことをおききになるなんて――ソヴェトの研究や発見の報告はいつも世界の学界へ報告されているんじゃないでしょうか――ドイツの医学雑誌では、ソヴェトのものはのせないことになっているのかしら――」
 伸子は、この言葉の皮肉な効果を全く知らずに云ったのだった。
 音楽の都のウィーンでは、ソヴェト音楽をしめ出していた。ドイツでの学会というようなところでは、似たようなことがあり得ないことでもないと思ったのだった。ところが、伸子の単純な問いかえしに答えて発言する人は誰もなかった。みんな黙っている。その黙りかたが何だか妙だった。話しがすんで、いくらかゆとりのできた伸子は、いぶかしがる視線で、部屋の奥にかたまっている人たちの方まで見た。そっちの壁には、ドイツの趣味で紫がかった水色タイルで飾られたカミン(煖炉の一種)が四角くつきでていた。その左右のくぼみへ椅子をひきつけて、若い人々が云い合わせたようにその隅にかたまっていた。その一番隅っこのところで、三十三四の一人のひとが、カミンへ肩と頭とを軽くよせかけた楽な姿勢で腕組みして居た。その人は組合わせた脚をゆるくふりながら、唇をしめたまま微笑していた。伸子の視線がその微笑にとめられた。それは智慧のあらわれた微笑であり同時に批評をたたえている微笑だった。その表情が暗示するものがあった。伸子は視線をもどして、勿体ぶって間接に質問した人や自分がそこでかこまれているテーブルのぐるりの人々を見直した。どっかりと自分たちをテーブルのぐるりに落つけている人々はみんな概して年配であった。カミンのところにかたまっている後輩たちが、当然彼らのためにその場所をあけておくものときめてそこへかけているような人々だった。ベルリン
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