ュつも泥のしぶきでまわりの雪のよごれた小さい黒い穴ぼこができているのを発見した。樹の枝々からしたたり落ちる雪どけ水が点々と地べたの雪をうがってつくる穴ぼこだった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に春の来たしるし、季節の足跡として、去年の早春も並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》を散歩するたびに伸子の目についた。いよいよ手術しなくてよくなったうれしさでいたずらっぽくなった伸子は、爽快な外気の中を運搬車にねたままで押されてゆきながら道ばたの菩提樹の下にあらわれるそのよごれた小さい黒い穴を、あんこ[#「あんこ」に傍点]のついた日本の子供の口のまわりのようだと思った。ひとり笑いたいような気持で眺めて通ってゆくうちに連想がひろがって、伸子はチョルト・ポヴェリ(悪魔にさらわれろ!)と、すぎさった手術に向って心の内で陽気にルガーチ(罵り)しながら、ひとり笑いで唇をゆるめた。ロシアの人が言うように、一つの黒い小さい穴から一匹の悪魔《チョルト》が消えるものなら、何てどっさりの悪魔が、ここいら辺の雪の上についた穴から消えたことだろう。何ぞというとチョルトという言葉をつかって悪態をつくロシアの大人や子供が、冬じゅうめばりをした家の中ではき出した大小無数のチョルトが、春になって開いた戸口からみんなにげ出して、やれやれと穴へもぐったかと思うと伸子はひどく滑稽だった。
「わたしのロシア語じゃ、とてもこんなおかしさは話せないしさ。それこそまったくチョルトだと思っておかしくって……」
 伸子は安心を笑いにとかし出して素子とふざけた。

        十七

 手術しなくていいときまって、伸子はなるたけ一日のうちの長い時間をベッドから出て、起きている稽古をはじめた。三月中に退院することについて現実のよりどころができた。フランスでうちのものたちと合流するという計画も実際的に考えられて来た。三月十四日に間に合うように和一郎と小枝との結婚を祝う電報をうったなかに伸子はハハノケンコウノタメアメリカケイユデコラレヨと云ってやった。糖尿病からのアセモがひどくて、毎年夏は東京にもいられない多計代が、どうして真夏の欧州航路で印度洋の暑熱をとおって来る気になっているのだろう。伸子はだんだん考えを実際的にひろげて行って、それを無謀だと思った。うちのものが少くとも恙《つつが》なく旅をたのしむには多計代の健康が第一であり、そのために金はかかっても、涼しい太平洋の北方航路をとり、アメリカも北方鉄道でぬけて大西洋からフランスへ来た方が、安全と思われるのだった。
 日本ではきょう和一郎と小枝の結婚式があげられたという夜、伸子は何とはなし眠りにくくて、九時すぎても病室のあかりを消さずにいた。
 かれこれ十時になろうとするころだった。伸子の病室のドアがあいて、よほど前に一ぺん見たことのある女の助医が入って来た。看護婦とフロムゴリド教授の助手であるボリスとのちょうど中間のような地位で、伸子が入院して間もなく回診について来たことのある女助医だった。
「こんばんは。――いかがですか?」
 伸子が名前を知らない女助医は、ずっと伸子のベッドのそばへよって来た。
「久しくお会いしませんでしたね。もうほとんど恢復しなすったんでしょう?」
 この前みたときと同じ四角い乾いた顔つきで、彼女は愛嬌よくしゃべりながら、伸子を見たりベッドの枕もとのテーブルの上へ眼を走らせたりした。
「今晩、わたしは当直なんです。あなたのことを思い出しましてね、よし、ひとつあの気持のいい日本の御婦人を見舞って来ようと思いついたんです」
 彼女の来た時間も、また彼女のいうこともとってつけたように感じながら伸子は、
「ありがとう」
と答えた。
「やっとそろそろ歩きはじめました――もう結構永いことねたきりだったけれど」
「おめでとう」
 女助医は何だかおちつかない風で病室のなかをひとわたり見まわし、
「ちょいとかけていいですか」
ときいた。
「――どうぞ」
 伸子は、病室へ来たものは誰でもそうするようにその女助医もむこうの壁ぎわにおかれている長椅子にかけるものと思った。ところが、彼女は伸子が思ってもいなかったなれなれしさで、いきなり伸子がねているベッドの脇へはすかいに腰をおろした。伸子は思わずかけものの下で少し体を横へずらせた。女助医は、伸子がその表情をかくそうともしないで迷惑がっているのに一向かまわず、夜の十時の患者の室がまるで非番の日曜日の公園のベンチででもあるかのように、
「あなた、作家でしたね、そうでしたね」
と言いだした。
「ええ」
 伸子は短く答えた。
「どんなものをお書きなさるの?――ロマン? それともラススカーズ(短篇)? ああ、わたしは文学がすきですよ。何てどっさり読むでしょう!」
 だま
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