チている伸子に、彼女はくりかえしてきいた。
「ね、何をおかきなさるの?」
「小説(ポーヴェスティ)です」
「すばらしいこと! ロシア語でかかれないのはほんとに残念です。本になっていますか」
「わたしはもう幾冊かの本を出版しています」
 だが、一体何のためにこういうばからしい会話をしていなければならないのだろう。伸子には訳がわからなくなった。彼女が伸子を迷惑がらしているということをはっきり知らすために、伸子は、
「私に幾冊本があろうと、あなたには同じことです――残念ながらあなたは読めないんだから」
 そう言った。
「さあ、もうそろそろねる時間です」
 そして、伸子がベッドの中で寝がえりをうちそうにすると、女助医はどうしたのか、
「もうちょっと! 可愛いひと!(ミヌートチク! ミーラヤ!)」
というなり、ベッドのはじに斜《はす》かいにかけていた体を、半分伸子の上へおおいかぶせるようにして右手を伸子の体のあっち側についた。
「きいて下さい、わたしはゆうべ結婚したんです」
 その瞬間伸子は女助医が酔っぱらっているのかと思った。ウィシュラ・ザームジュ。嫁に行った――そうだとしてこのひとは何故伸子に知らさなければならないのだろう。伸子は枕の上でできるだけ頭と顎をうしろへひき、きめの荒い四角いどっちかというと醜い女助医の顔から自分の顔を遠のけるようにした。
「あなた、旦那さんがありますか?」
 不機嫌に伸子は、
「わたしに旦那さんがあるんなら、どうぞ見つけ出して下さい」
と云って、片手で、
「窮屈(トゥーゴ)」
と自分の上へかぶさりかかっている女助医の白い上っぱりの腕をおしのけるようにした。そう大柄ではないが重い彼女の体と、伸子の体ごしにつっぱった彼女の手との間で伸子のベッドのかけものは息ぐるしく伸子の胸の上でひきつめられた。
「ね、息をさせて!」
 必要よりすこしきつい力を出して伸子は身をもがいた。女助医は上の空のような表情で、
「御免なさい」
 伸子の体ごしについていた手をどけ、同時に自分の体をまともな位置にもどしながら、なお追いかけて思いこんだように、
「あなた、どこからお金をうけとっているんです?」
ときいた。
 この質問で、伸子に万事が氷解した。彼女はさしせまってモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学病院に入院中の日本婦人佐々伸子について、一定の報告をしなければならない立場におかれているにちがいなかった。しかもそれは、突然の必要で、彼女はいそいでいるのだ。それにしても、この人は何という下手な演技者だろう。そういう性質の仕事にまったくふさわしくなく愚直で、悪意がないどころか機智にさえかけた女助医のしどろもどろの努力はむしろ伸子にあわれを感じさせた。伸子は、もう一年以上モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に生活して、ある程度は外国人に対するソヴェトとしてやむをえない必要というものについては理解していた。そして、伸子の理解は同情的だった。無邪気でない者に対して無邪気である必要はない。自分の気持としてもそう思っているのだった。だからそういう特殊であるがその特殊が一般性となっているところではあるとき自分もそれにかかわってゆくのはさけられなかった。伸子の主観的な気持から言えば、いまこの女助医は率直に、これこれのことについて答えて下さい、と伸子に向っていうのが一番かしこい的確なやりかただった。しかし彼女にそうはできない。なぜなら彼女の女助医という立場と別の任務とは全く別個の任務とされていてそれについて知っているものは彼女自身よりほかにあってはならないのが任務の性質だから。
 伸子は、彼女のためと自分自身のために、きわめてざっくばらんに説明した。
「或る程度文学の上での仕事を認められている作家が、出版社から本を出す約束で金を出させて旅行するということは、どこの国でもあることです。――わたしのいうことがわかります?」
「どうして? もちろんわかりますよ」
「日本の代表的な出版社の一つである文明社がわたしが出すだろう本のためにわたしのところへ金を送ってよこすんです。朝鮮銀行を通して。――わかりました?」
 どうして越したらいいのか戸まどっていた質問の峠を、すらりと通過することができて、女助医はやっと自然に近い表情と動作をとりかえした。あんなに突拍子もなく、まるで何かに酔っぱらったようにゆうべ嫁に行った、などと口走ったことを忘れたように、彼女はにっこりして、
「きっとあなたはソヴェトについて興味のある本をかくことができるでしょう」
と云った。そして、はじめに文学がすきだといったときの空々しさのない調子でつけ加えた。
「ロシア語に翻訳されることをのぞみます」
 なお暫く黙ってベッドのはじに掛けていたがやがておとなしく立ちあがって女助医は
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