ヌ、伸子はさっぱりしたこころで、一家の旅行が愉快に始められることを希望するようになった。
 翌日、素子が来たとき伸子は、彼女の顔を見るなり、
「ねえ、わたし、少し希望が出てきたわ、みんなが来るということについて」
 嬉しそうに快活に言った。
「わたしはね、早くよくなって、フランスまで出かけて、まめによくみんなの面倒をみてやってね、帰れなんて言われないようにする決心したのよ」
 熱心な思いを浮べて話している伸子の顔をじっと見つめ、素子は非常にまじめな複雑な表情で、彼女の大きめな唇の隅をゆっくりつりあげた。その表情には、ちっとも皮肉がなく、伸子をあわれんでいるような、また伸子のその考えかたをあやぶんでいるような表情だった。伸子は、その表情に素子の無言の批評を感じて、
「どうして?」
とききかえした。
「いけないところがあると思う?」
「――よすぎるぐらいだろう」
 素子は、
「肉親なんて、なんと言ったって大したもんさ」
と、沈んだ声で云った。伸子は、その声の調子から、素子の知りぬいている多計代を中心にパリのどこかでかたまった情景を描くと、素子はその家族の輪に決してしっくりはまることのあり得ない自身を急に一人別なものとして感じているにちがいなかった。伸子は、間接にその問題にふれ、しかし直接には自分の希望として、
「わたしたちは、うちのものとは別々に暮しましょうね」
と提案した。
「どうせわたしたちは、生活の内容がちがうんだし、サーヴィスばっかりじゃとても身がもたないから」
 伸子たちが、すこし早めにパリへついていて、自分たちなりの暮しかたをはじめておれば、佐々のうちのものとすっかりまぜこぜになる必要もおこるまい。いくら、うちのものを満足させようと思う気になったにしろ、伸子は多計代が好むような交際や見物につき合うきりで辛抱できない自分であることはわかっているのだった。そして、もっと伸子自身にとってこまったような面白いような思いのすることは、フランスとかパリとかいうとき、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に一年以上生活した現在、伸子の心にそこで何がほんとに自分の興味をとらえるのかということがつかみにくくなって来ていることだった。ひととおりのものに万遍なく興味をもつことは、伸子の生れつきから自然だった。ソヴェトへ向って立って来る時分の伸子は、そのひととおりフランスらしいもの、音楽とか絵とかカフェーとかマロニエとかパリの雰囲気として語られているものに期待するだけだった。けれども、現在の伸子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]についてクレムリンや並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》の風物以外のより現実的な生活の組立てと動きとに魅せられているとおり、パリときくと、そこには何があるだろうかと、見とおしのきかない複雑な都会生活のリアルな細部を求めて気持が動き、フランス語を知らない自分たち二人がもっている貧弱な可能性について伸子は思うのだった。

 もうとうに素子のスケート練習は中止だった。素子はそれでも三四度、大使館専用のスケート場へ通ったらしかったが、ころんでばかりいたってはじまらないや、と笑いもせずにつぶやいて行かなくなってしまった。伸子はベッドの中から惜しがって、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいるうちだわ、おやりなさいよ、とはげました。きっともうじき歩けてよ、いまやめちゃ、一生やらなくなっちゃうってことだもの。しかし素子は、わたしは駄目だよと伸子の激励をこばんだ。わたしは駄目さ。体をこわばらしちまうんだから。――伸子はそれ以上すすめることをやめた。素子自身に不可抗な、そういうことは素子の性格的な一つのあらわれであることを伸子は理解したから。
 七月一日マルセーユ着という多計代からの電報をうけとってから、日に一度伸子の病室へ来る素子の来かたもおのずから内容がかわった。病人である伸子の気分もかわって、二人はこれまでのようにミカンをたべながらのんびりしているというような時間がなくなった。伸子と素子とは長椅子へ並んでかけた膝の上にヨーロッパ地図をひろげて手帳のうしろについているカレンダーを見くらべながら、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]からパリまでの道順を相談した。ウィーンとかベルリンとかいう都会にどのくらいずつの日数を滞在するかという予定をたてた。素子はそれとなしに河井夫人に相談して、二人の最少限の服装はでずいらずのウィーンでととのえるのがよかろうということになった。ウィーンからプラーグ。そこからカルルスバードへ行き、ベルリン、パリという順だった。それにしても、伸子がいつ退院できるものか。うちへは、今月末までに退院と電報をうってやったけれども、それは退院の見こみ、または伸子たちの
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