》」
 肉を入れて来た樺製のカバンを足許において、その売手は、膝まである防寒靴を雪の上でふみかえながらせきたてた。じいさんは、口をきかない。その白髪まじりの不精髭につつまれたじいさんの顔にある無限の疑りぶかさに伸子の目がひかれた。じいさんは、おそらく、お前の名はこれこれだ、とその名を云われても、やっぱりその疑りぶかい顔つきを更えないだろう。ここの露店で売られるものは、すべて公定の価よりも三割か四割たかかった。何でもあるかわり、売る方も買う方も、実力のかけひきだった。アホートヌイ・リャードにどよめいている群集の中には、労働者風の男女は殆どみかけられないのに伸子は気づいた。そして子供づれも。――雪のつもった長方形の広場のむこうには、道のはたへとび出したような位置に古い教会がのこっていて、わきの大きい建物に張りわたされている赤いプラカートの上には、くっきりと白く、文盲を撲滅せよ、とよまれた。そういう広場の雪をよごしながら群集が動いた。
 伸子が、ながい街あるきの果に、自分たちの夜食のための刻みキャベジやイクラを買いに入る店は、ホテルからじきのところにあった。半地下室のその店の入口の段々のところからタイルではった床の上まで、オガ屑がまかれていた。濡れたオガ屑の匂い、漬もの桶の匂い、どっさり棚につまれた燻製《くんせい》から立つ匂い。それらがみんな交りあって、店の中には渋すっぱくて、懐しいような匂いがこめている。――伸子がやがて外套に冬の匂いをつけ、頬の色も眼のつやも活々とした様子で、ホテルへかえって来るのだった。
 素子は、大抵、伸子が出がけに見たとおりデスクの前にいた。入ってゆく伸子をみて、素子は椅子の上でふりむき、
「どうだった?」
ときいた。これは、そとは一般にどうだった、という意味だった。その素子の声には、たっぷり三時間一人でいたあげくの変化をよろこぶ調子がある。伸子は喋《しゃべ》り出す。素子も新しいタバコに火をつけた。
「でもね、こういうこまごました面白さって、生活の虹だもの――話したときはもう半分消えてしまっているわ」
 伸子は、遺憾そうに云った。
「ほんとに一緒に出られるといいのに。――」
 デスクの上にひろげられている本から、わきにおいてある腕時計へちらりと目をやりながら、素子は、
「なにしろ、毎日の新聞をよむのがひと仕事なうちは、仕様がないさ」
 あきらめたように云うのだった。新聞――伸子はうけて来た許りの様々の印象で瑞々《みずみず》しく輝いていた眼の中に微かな硬さを浮べた。

 毎朝起きると、ドアの下から新聞がすべり込んでいるようになったとき、伸子は、自分によめない字でぎっしり詰まっている「プラウダ」の大きい紙面を、あっちへかえし、こっちへかえしして眺めた。そして、素子に、
「あなたが読んでいるとき、ところどころでいいから、わたしにも話してきかしてくれない?」
とたのんだ。そのとき「イズヴェスチヤ」の一面をよんでいた素子はすぐに返事をしなかった。
「ねえ、どう?」
「――ぶこちゃんはデイリー・モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]よめばいいじゃないか」
「どうして?」
 むしろおどろいたように伸子が云った。
「デイリー・モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は、デイリー・モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]じゃないの。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]・夕刊は、プラウダとちがうでしょう? そういう風にちがうんじゃない?」
 主として外国人のために編輯されている英字新聞が、プラウダと同じ内容をもっているとは思えなかった。
 丁度その年の秋のはじめ頃ソヴェト最大の石炭生産地であるドン・バス炭坑区の、殆ど全区域にわたって組織されていた反革命の国際的な組織が摘発された事件があった。帝政時代からの古い技師、共産党員であってトロツキストである技師、ドイツ人技師その他数百名のものが、数年来、ソヴェトの生産を乱す目的で、サボタージュと生産能率の低下、老朽した坑内の支柱をわざとそのままにしておいて災害を誘発させるというようなことをやって来た。それが発見された。
 その記事は伸子も日本にいた間に新聞でよんだ。日本の新聞記事は、この事件でソヴェトの新社会が一つの重大な破綻に面し、またスターリンに対する反抗が公然化されたというような調子で書かれていた。そのドン・バス事件の公判が、伸子たちのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来た前後からはじまっていた。一面を費し、ときには二面をつかって、反革命グループのスケッチと一緒に事件の詳細な経過が報告された。そういう記事は世界じゅうの文明国の新聞にのったとおり、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]発行のすべての新聞に掲載されていた。けれども、伸子は、この
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