この話は伸子にとって、ノヴァミルスキーがここへ出現したことよりも意外でなかった。新世界という字をもじったノヴァミルスキーという名は本名なのだろうか、それとも、ウリヤーノフがレーニンと云った、そんな風なものなのだろうか。伸子たちの間で話題になったことがあった。マリア・グレゴーリエヴナは、頬に当てた左手の肱をもう一方の手で支えながら、ノヴァミルスキーのいうことをきいていたが、
「わたしどものところの革命も、随分いろいろ批評をうけます。でも、批評する人たちに、それまでの私たちがどんなに生きていたかということが、ちょっとでも分りさえしたら!」
と云った。
「革命は、たしかに少くない犠牲を出しました。けれど、その幾千倍かの人に、生を与えたんです。それはもっとたしかな事実なんです」
 革命前、マリア・グレゴーリエヴナは将校の妻であった。
「何という生活だったでしょう。あのころわたしは、死ぬことしか考えませんでした。でも、小さい男の子と女の子を、誰が育ててくれるでしょう? そのうち十月が来ました。そして、わたしと子供たちの人生が新しくはじまったんです」
 子供たちの望みで、男の子はマリア・グレゴーリエヴナについてここで暮すようになり、女の子は、父親について別れた。
 このマリア・グレゴーリエヴナのところへ素子も通いはじめた。素子は、プーシュキンの「オニェーギン」をよみはじめた。

 マリア・グレゴーリエヴナの稽古から、真直伸子がホテルへかえって来ることはほとんどなかった。ストラスナーヤ広場から、雪につつまれた並木道をニキーツキー門の方まで歩いてみることがあった。その時間の並木道は、ひどい雪降りでないかぎり、戸外につれ出されている赤坊と子供たちでいっぱいだった。すっかり蒲団《ふとん》にくるまれた赤坊は、乳母車のなかで小さく赤い顔だけ出して遊歩道を押されて行った。すっぽり耳までかくれる防寒帽に、紐でつったまる手袋、厚外套で仔熊のようにふくらんでいる子供たちは、木作りの橇をひっぱっていた。その上に腹這いにのっかって、枝々に雪のある楡《にれ》の並木の間の短い斜面を、下の小道まで辷りっこしている子供たち。
 纏足《てんそく》をして、黒い綿入ズボンに防寒帽をかぶった中国の女が、腕に籠を下げ、指にとおしたゴム紐で、毬《まり》をはずまして売っていた。その毬は支那風に、赤、黄、緑の色糸でかがってある。並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》の入口にコップ一杯五カペイキの向日葵の種やリンゴ、タバコを売っている屋台店《キオスク》があり、一軒の屋台店では腸詰だのクワスだのを売っていた。その屋台店の主人は顔の黒い韃靼《だったん》人で、通りがかった伸子をきつい白眼がちの眼でじろりと見て、壺から真黄い粟のカーシャをたべていた。雪の白さに、韃靼人の顔の黒さはしんから黒く、粟の黄色さは目のさめる黄色だった。色彩のそんな動きも、絵か音楽のように伸子の心にはいった。
 風景に情趣こまやかなのはストラスナーヤから左の並木道で、同じ並木道でも右側にのびた方はいつも寂しく、子供たちも滅多に遊んでいなかった。遠くに古い教会の尖塔が見える雪並木の間を、皮外套に鳥打帽子の人たちが、鞄をかかえ、いそがしそうに歩いていた。道を歩いているというよりも用事から用事へいそいでいるようなその歩きつき。ぐっと胴でしめつけられた皮外套の着かたや、全神経が或る一点に集注されていて、ものが目に入って来ない眼つき。そういう視線が無反応に自分の上を掠めるのを感じながら、こちらからは一つずつ一つずつそういう顔を眺めて並木道を歩いてゆく心持。伸子にはそれも興味ふかかった。
 トゥウェルスカヤ通りをアホートヌイ・リャードまで下り切ると食糧市場へ出た。切符制で乳製品や茶、砂糖、野菜その他を売る協同販売所が並んでいる。その歩道をはさんだ向い側に、ずらりと、ありとあらゆる種類の食品の露店が出ていた。半身まるのままの豚がある。ひろげた両脚の間にバケツをはさんで、漬汁がザクザクに凍った塩漬胡瓜を売っている。乳製品のうす黄色い大きなかたまりがある。蝶鮫《ちょうざめ》がある。リンゴ、みかんもある。卵をかごに入れて、群集の間を歩きながら売っているのは、大抵年をとった女だった。つぶした鶏を売っている爺がある。絶えず流れる人群れに交って、伸子のすぐ前を、一人の年よりが歩いていた。脚立《きゃたつ》をたてて、その上へ板を一枚のせて、肉売りがいる。その前へ、年よりがとまった。
「とっさん、素晴らしい肉だぜ。ボールシチにもってこいだ!」
 それはいい肉と云えるのだろうか。伸子の目に、その塊りは黒くて、何の肉だか正体がしれなかった。黙ったままじいさんは、よごれた指を出してちょいとその肉をつついて見た。
「え《ヌ》? どうだね《カーク
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