−7−82]芸術座の通りを歩いていたら、そこに幾軒も婦人帽を売る店があった。その一軒で伸子は、金色の簡単な飾金のついた褐色小帽子に目をとめたのであった。
伸子と素子とは、その店へ入って行った。そして、ショウ・ウィンドウに出ていたその帽子を見せて貰った。それは伸子の気に入ったけれども、かぶってみるとあわなかった。髪が邪魔した。伸子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の婦人たちが、だれもかれもきりっと小さい帽子をかぶっているのは、彼女たちが断髪だったからだとはじめて気がついたのだった。
その褐色帽子を手にとったまますこし考えていた伸子は、ひどく自然な調子で、
「わたし、きるわ」
と云った。
「きる?――いいのかい?」
そういう素子は、ハルビンで断髪になっているのであった。
「ほんとに、きっちゃうわ――いいでしょう?」
「そりゃ、いいもわるいもないけれど」
「じゃ、そう云って頂戴。――どうせ、ちゃんときり直さなけりゃならないんだろうけれど……」
こういういきさつで断髪になった頭に褐色帽子がおさまることになった。伸子は新聞読みに没頭しはじめた素子をデスクの前にのこして、ホテルを出かけた。
伸子のわきの下には、表紙に「黄金の水」という題のある一冊のパンフレットと、縁を赤く染めたモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]製の手帖が抱えられていた。
トゥウェルスカヤの大通りをストラスナーヤ広場まで真直のぼって行った伸子は、広場をつっきって、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊新聞社の建物とは反対側の薬屋の横を入った。そして、正面入口の破風の漆喰《しっくい》に波にたわむれる人魚の絵がかいてある建物の三階へあがっていった。この建物にはエレベーターがあったらしいが、いまは外囲いの網戸だけがのこっている。伸子がベルを押したドアがすぐあいて、黒スカートに、少し色のさめた水色のスウェターを着た三十五六の婦人が顔を出した。この家で、このひとに、伸子はロシア語の初歩を習いはじめているのであった。
艷のない栗色の髪を、ロシア風に頭の真中でわけ、こめかみのところに細い髪房にしてたらしているマリア・グレゴーリエヴナを、はじめ紹介してくれたのは|ВОКС《ヴオクス》であった。ノヴァミルスキーが伸子の相談に応じて、彼のおどろくべき最低音の声で推薦したのがここであった。
約束の第一日、伸子は貰った所書と地図をたよりにこの建物をさがし当てて来た。マリア・グレゴーリエヴナの小皺の多い丸顔には、善良さと熱心さとがあらわれていて、伸子は気が楽になった。早速「黄金の水」がはじまった。短い課業が終って、二人が不自由な英語で雑談していると、入口でベルがなった。
「あら、おかえりなさい! もう?」
出て行ったマリア・グレゴーリエヴナのおどろいたような声がした。対手は男らしいが声は聞えない。伸子がこんどマリア・グレゴーリエヴナが現れたら帰ろうとしていると、
「佐々さん、こんにちは」
ききちがえようのない最低音で云いながら、ノヴァミルスキーが入って来た。つづいてそこへ現れたマリア・グレゴーリエヴナを、
「わたくしの妻です」
と改めて紹介した。
「課業はいかがです?」
ここがノヴァミルスキーの家だとは思いがけなかった。伸子は急にいうことが見つからなくて、
「ありがとう」
と答えた。
「たしかにいい先生を御紹介下さいましたけれども、わたしはいい生徒とは云えないかもしれません」
「そんなことはありません。わたしの経験でわかりますよ」
ノヴァミルスキーもそうだが、妻のマリア・グレゴーリエヴナは、すこし鼻のさきの赤いような顔で熱心に云った。
「佐々さんは、早い耳をおもちですもの」
それにしても、伸子にはやっぱりここがノヴァミルスキーの家だったということが、意外だった。|ВОКС《ヴオクス》で話したとき、ノヴァミルスキーは、まったく第三者の感じだった。自分の妻、その妻の仕事、それを、あんなに、その表情さえも第三者として話した。ノヴァミルスキーは、マリア・グレゴーリエヴナがもって来た紅茶のコップにサジをさしたまま、そのサジを人さし指となか指との間でおさえてのむ飲みかたで美味そうにのみながら、
「革命博物館は見られましたか」
ときいた。
「ええ。見ました」
「あれは独特な意義をもっています。当分は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にしかあり得ない種類の博物館だと思いますね」
ちょっと言葉を改めて、ノヴァミルスキーは、
「私は七年間、牢獄におかれました。アナーキストだったんです」
と云った。
「十月にレーニンに会って、二時間話しあいました。そのとき、私は自分のそれまでの思想をかえたんです。――発展させたんです――発展――おわかりですね」
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