世界の視聴をあつめている事件の成りゆきばかりでなく、しんのしんにある意味というものをつかみたかった。こんなに執拗な階級的な憎悪。そしてそれらの人々としてはきわめて真剣に計画し実行されていた陰謀。それがその人々にとってどんなに真面目だったかということは、公判で、すべての被告が、理性的という以上に理論をもって陰謀を告白しているということでもわかった。そこには、ソヴェトの建設に傾注されている情熱と匹敵すると云っていいくらいの破壊と妨害への情熱があり、伸子はこれらの情熱の源泉としての憎悪、更にその憎悪の源泉としての利害のありどころについて知りたかった。フランスの貴族たち、王党の人たちは、自分たちが貴族であり王党でさえいられるならと、大革命のとき、外国から軍隊を招きいれて、あんなに祖国を蹂躙《じゅうりん》させた。トロツキストたちは、何の情熱で、外国の資本家たちの侵害の手さきとなるのだろう。ただ何でもかでも妨害したいためだろうか。政権への欲望というものはそういう狂気のような情熱をもたせるものなのだろうか。
 伸子は、そのとき、もう一度、
「――じゃあ社説の要点だけでもいいから――駄目?」
ときいた。素子は、
「ぶこちゃんは、そんなに、こせこせしなくっていいんだよ」
と云った。
「ぶこちゃんみたいな人間は、今のまんまで結構なのさ。あるいたり、見たり聞いたりしてりゃいいのさ。――いずれはどうせ読めるようになるんじゃないか」
 読めないなりに、伸子はデイリー・モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のほかに、記事のかきかたのやさしいコムソモーリスカヤ・プラウダを外出のたびに買って来て見るのだった。
 朝から夜まで素子と伸子とが、一緒に行動したのは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ着いて、ほんの五日か一週間ぐらいのことであった。素子は、二人で芝居を観に出かける夜の時間をのぞいて、毎日の規則正しい勉強の計画をこしらえた。マリア・グレゴーリエヴナのところでプーシュキンを読むほかに、素子は一人の女教師に来て貰って、発音と文法だけの勉強もはじめた。
 言語学を専攻したというその女教師が、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河のむこうからホテルへ教えに来るのは、芝居に行かない月曜日の、正餐後の時刻であった。
 その晩、教師が来たとき、伸子は、その前のときのように、素子が勉強するデスクから一番遠い壁ぎわに角テーブルをひっぱって行って、そこで、例の「黄金の水」の書きとりをやっていた。緑色笠のスタンドの光を棗《なつめ》形の顔にうけて、素子は、伸子にわからない慣用語や語源の質問をした。それが終り、発音の練習がはじまった。これは、ひとりで伸子の耳にわかり、時々興味をひかれた。ベルリッツの萌黄《もえぎ》の本で一から百・千・万と数をおそわったとき、たとえば五はピャーチとかかれていて、素子はそれをその字のように発音した。だから伸子も、のばしてピャーチと云うものだと思っていた。しかし、それが十とくっついて、五十というときはあとの方に力点がついて、五はまるでペチというように響いた。
 女教師と素子とは、機嫌よくときどき笑ったりしながら、いろいろの組合せで発音していたが、ふと、女教師が何かききとがめたような声の表情で、
「どうぞ――もう一度」
と求めた。素子が注意してくりかえしているのは「あった」という字であった。伸子は室のこっちの壁ぎわで、粗末な紙の帳面へにじむ紫インクで書き取っていた。「農民ボリスは、非常に苦悩した。何故なら、彼に富と幸福をもって来る筈だった黄金の水――石油は、彼を果しのないぺてんの中へひっぱり込んだから」ひっぱりこむ、という字がわからなくて辞書をみていた伸子は、デスクのところで、
「何故です?」
 すこし怒りをふくんでききかえしている素子の声で、頭をあげた。
「わたしは、三度とも同じに発音したのに」
 まだ「あった」が問題になっていた。伸子は、おやおやと思った。柔かいエリときつく舌を巻くエルの区別が出来ない伸子は、駒沢の家でロシア語の稽古をしていた時分、素子に散々笑われた。その素子が、やっぱり本場へくれば、案外エリを荷厄介にしている。女教師はもう一度、そのごくありふれた一つの字を素子に発音させた。こんども黙って不賛成をあらわし、頭をふった。彼女のその視線が丁度そのとき帳面から顔をあげたばかりの伸子の眼とあった。女教師は、その拍子の思いつきらしく、素子のよこにかけたままの遠いところから、
「あなた、やって御覧なさい。――ブィラ」
と、その室の端にいる伸子に向って云った。
 伸子は、下手な方に自信があったので、格別の努力もしないで、その言葉を発音した。
「もう一遍」
 伸子は素直にもう一遍くりかえした。
「御覧なさい。あなたのお友達は
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