毛《こわげ》のたまのような女の感情の一部に、そう云う用語になじみきった一つの生活があって、ありがとうともお邪魔さまとも云わず、お前さんはよくわかるように説明したよ、とお礼のつもりで云って帰った。伸子はそこにやっぱりソヴェトとなってからの十年というものを彼女の生活としてうけとったのだった。
こんな風なモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学病院での生活のうちに、伸子の病気は快癒するというより、どうやら徐々におちついてゆくという消極的な経過だった。二月も末になってからまだ右脇腹にのこっている重く鈍い痛みで上体をまげたまま伸子はやっと寝台から長椅子まで歩くようになった。
十四
そういう或る日、伸子にとっては一日で一番きもちのいい湯上りの時間だったにかかわらず、彼女は緊張した眼を病室の白い壁にくぎづけにして、考えこんでいた。その顔の上にめずらしい屈托があった。彼女の胸に生れた苦しい混乱した思いをてりかえして。
伸子は、伸子の病気に対する故国の母親の心配ぶりをきょう思いがけない形でうけとったのだった。外国に駐在する大使館付の陸軍武官という立場の軍人がもっている様々な隠密の任務について、多計代はおどろくばかり無邪気で、ただ派手やかな役目という風にだけ考えているらしかった。さもなければ、多計代も一二度の面識しかない藤原威夫という陸軍少佐に、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で入院している娘の伸子の様子をよくしらべて、逐一《ちくいち》本国へ知らして呉れるようにとたのんだりはしなかったろう。話によれば最近この藤原威夫という少佐の義妹が、一人の若い医学士と結婚した。その医学士というのが、計らず、伸子もそのひとの父親にはおんぶされたりした覚えのある関係の家庭の長男で、結婚式には佐々泰造も多計代も出席した。その席で、偶然、義兄にあたる藤原少佐が或は近くモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]駐在になるかもしれないという話が出た。そのときはそれぎりだったのが、出立の二日前とかに多計代が使をよこした。そして出発の日が迫っているとしると、その日のうちにと、もう夜がふけたのに藤原威夫の郊外の住居を訪ねて、伸子の様子を見てもらうことをくれぐれもたのんだのだそうだった。あいにく自動車が家の前まで入らないもんですからかなりのところを車から降りて、さがしさがし歩いて来られたんで恐縮しました。よほど御心痛の様子でしたよ。くりかえして、私の目で見たあなたの様子をそのまま知らしてくれ、と云って居られました。ことのいきさつをそう説明されて、伸子として礼をいうよりほかにどうしようがあるだろう。
伸子は病気の経過をずっと話した。いや。お目にかかるまでは、どんなに憔悴《しょうすい》しておられるかと思っていたんですが、この様子ならばもう大丈夫です。ひとつ、御安心なさるようによくかきましょう。四十をいくつか越して見える藤原威夫というその少佐は、若いときからかぶっている軍帽でむされて髪の毛がうすくなったのが五分刈の下からもわかる顱頂《ろちょう》部をもっていて、その薄はげと冴えない顔色とはかえって頭脳の微細な勤勉と冷静な性格を印象づけた。伸子たちが来た頃からモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]には木部中佐というアッタッシェがいた。その人の年中よっぱらっているような豪放|磊落《らいらく》らしい風と、きょう伸子の前に現れた藤原という少佐の人がらはひとめ見て対蹠《たいしょ》的であり、普通そうであるように、もとからのひとと新しいアッタッシェの交代が行われず、これからはこの、いかにも互に相補うといった性格の二人がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に駐在するのだそうだった。東支鉄道の問題、漁業権の問題でこのごろ日ソ国境に関心がたかまっている。そのことが浮んで、伸子にも新しく藤原威夫が加えられて来た意味が察しられるのだった。伸子にさえあらましはその任務の性質が察しられる陸軍少佐が、不思議な御縁で[#「不思議な御縁で」に傍点]佐々の家にとっては内輪のもののように多計代からたのまれて、伸子の前に出現した。家族に一人も軍人というもののない家庭に育ったせいと、関東地方の大震災のとき憲兵大尉の甘粕が、大杉栄と妻の伊藤野枝と甥の六つばかりの男の子をアナーキストの一族だというのでくびり殺して憲兵隊の古井戸へすてたことがあり、伸子はある場所で、その男の子の母親にあたる若い女の人が声を忍ばして泣く姿を見た。伸子の軍人ぎらいは骨にしみたものになっているのだった。
伸子がこわく思うような粗剛なこわらしさは、藤原威夫のどこにもなく、この少佐は全体がはっきりしない色合で静かに乾いた感じだった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]生活についてのあれこ
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