フ郊外の雪のなかに建っていて、風のない冬の雪明りが、病室にも廊下にも、やがて伸子が治療のためゆっくり熱い湯につかっているようになった浴室のなかにも溢れていた。壁の白さ、敷布の白さ、着ている病衣の白さは、透明な雪明りのうちに物質の重さを感じさせ、そこに生活の実感があった。自分で計画したり、判断したり行動したりする必要がなくなって、人々の動くのを眺め、人々に何かしてもらい、生活をこれまでとまったく別の角度から眺めるのは何とものめずらしいだろう。
 はげしい苦痛が去るとともに、伸子が臥ていながらときどき雪明りそのもののようにすきとおったよろこびを体の中に感じるようになった。鈍く重く痛い右脇腹は別として。――胆嚢や肝臓の炎症が病名であり、伸子はその一撃でねこんだのだけれども、生活の微妙なリズムは、病気そのもののためよりもむしろ伸子の生の転調のために、そういう病気を必要としたかのようだった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てから、とりわけ去年の夏保が自殺してからというもの、伸子の生存感はつよく緊張しつづけていた。ノヴォデビーチェのあのコンクリートの乾いてゆくにおいのきつい、淋しい室で、伸子がこりかたまったようにその淋しさとむかいあって暮した一週間。伸子にめずらしいあの方策なしの状態に、もう彼女の病気のきざしがあったかもしれず、もしかしたら、あの建物の生がわきのコンクリートが暖められるにつれて発散させていたガスが、伸子の肝臓に有害だったのかもしれなかった。しかし、伸子には病気の原因や理由をやかましく詮索するような感情がなかった。伸子は内臓におこった炎症の一撃でたおれた自分の状態をおとなしく、すらりとうけとった。
 ゾンデをのまなければならないとき、伸子は両眼から涙をこぼし仔猫のようにはきかけた。マグネシュームをのみ、ひどい下剤を与えられるとき、伸子は猛烈な騒々しさといそがしさのあげくにぐったりした。黒いレザーをはった台の上に横たえられ、皮膚の白いすべすべした伸子の胴がはだかにされることがある。その右脇腹へフランネルの布の上から錫《すず》板があてがわれ、電気のコードが接続された。物療科の医師の白上っぱりが配電板のうしろへまわると、きまって、伸子が仰向いたまま配電板の方へこわそうに横目をつかってたのんだ。
「パジャーリスタ・チューチ・チューチ。ハラショー?(どうか、少しずつ。いいですか)」
 そのほかのとき、伸子は明るく透明な雪明りに澄んだような気分ですごした。右の脇腹の中に黒くて柔くて重たいものがあって寝台から動けない、そのためになおさら心は安定をもって、ひろびろとただよい雪明りとともにあるようだった。伸子は、非常にゆっくり恢復の方へ向って行った。病気の原因はわからないまま。そして、規則正しくて単調な朝と夜との反復の間に、いつか伸子の心から、保が死んで以来の緊張がゆるめられて行った。その全過程について伸子が心づかないでいるうちに。保が死んだとき、八月のゼラニウムが濃い桃色の花を咲かせているパンシオン・ソモロフの窓ぎわで、懇篤なヴェルデル博士が、蒼ざめている伸子の手をとって、あなたはまだ若い、生きぬけられます(モージュノ・ペレジワーチ)と云った。いまこそ、伸子は生きぬけつつあった、突然な病気という変則な大休止の時期をとおして。

 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学の病院には一等二等三等という区別がなかった。伸子のいるのは、内科の婦人ばかりの病棟で廊下のつきあたりに三十ばかりベッドの並んだ広い病室が二つあり、その手前に、四つばかりの小病室が並んでいた。小病室には二つずつ寝台があって、病気の重いものがそこへ入れられた。けれども、小病室があいていて一人を希望すれば、伸子がそうしているように、室代を倍払うだけで一人部屋にもなった。糖尿病の患者の女が退院すると、その女のいたベッドは伸子のとなりからもち去られ、大きい長椅子がもちこまれた。
 素子が、その長椅子に脚をまげてのっていた。面会時間で、伸子がねているベッドの裾の方のあけはなしたドアのそとの廊下を、毛糸のショールを頭からかぶった年よりの女が籠を下げ、子供をつれて大病室の方へゆくのなどが見られた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では病院でも産院でも、原則として外から患者へ食べものをもちこむことは禁じられていた。
「考えてもごらんなさい。肉やジャム入りの揚饅頭が、胃の潰瘍にどんな作用をするか。しかも多勢の中にはそれさえたべたら病気がなおるとかたく信じている患者がいるんです」
 助手のボリスはそう云って笑った。素子は、伸子の正餐のためにルケアーノフのところから鶏のスープと鶏のひき肉の料理とキセリ(果汁で味をつけた薄いジェリーのようなもの)を運ばせる許可を得た。
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