`を吸わすのは素子だ。見ないだってそれはわかっている。ミカン――マンダリーン。マンダリーンチク。プーシュキンは、どうしてあんなにたくさん果物の名を並べたんだろう。アナナースとマンダリーン。それを、素子が韻をひろって、雑巾のこまかい縫めのように帳面のケイをさして行く。おかしなの。詩を韻だけで書くなんて――愚劣だ。
やがて伸子にだけ与えられている暗やみの中で、素子が、ミカンここへおいとくからね、と云った。またあした午後来て見るからね、と云った。そして素子はいなくなった。男の声と女の声との、ごろた石の間をゆくような発音の会話はまだつづいている。
目をあいて、伸子は自分のおかれている病室の早い朝の光景を見た。同時にはげしい脇腹の痛みを感じた。ベッドのわきの小テーブルの上にあるベルを鳴らして便器をもらった。雑仕婦が用のすんだ便器をもって病室を出てゆくと、隣りのベッドの上に起きあがっていた中年の女が、
「こういうところで、ものをたのむときにはブッチェ・ドーブルイ(すみませんが)といった方がいいんですよ」
と教えた。
「あのひとたちはみんな忙しいんですからね」
「ありがとう」
ブッチェ・ドーブルイと云うとき、女の声は入れ歯の声だった。伸子はゆうべのまぶしさとうるささとがこんがらかっていた気持を夢のような感じで思いだした。
素子が午後になって来た。
伸子の運びこまれたのはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学の附属病院だった。面会時間が午後の二時から四時までだった。伸子の胆嚢と肝臓とが急性の炎症をおこしているのだそうだった。
「胆嚢って、ロシア語で何ていうの」
「ジョールチヌイ・プズィリだよ」
「ふーん。ジョールチヌイ・プズィリ?」
「たって来る前、ぶこ、胃|痙攣《けいれん》みたいだったことがあったろう、あのときから少々あやしかったらしいね」
「どうして、炎症をおこしたの?」
「わからないとさ、まだ」
全身こわばって身うごきの出来ない伸子は[#「伸子は」は底本では「伸は子」]、二つの重ねた白い枕の上に断髪の頭をおいたまま、苦痛のある患者につきものの鈍い冷淡なような眼つきで、フロムゴリド教授をじろじろ観察した。フロムゴリド教授は、何てごしごし洗った、うす赤い手をしているんだろう。その手を、白い診察衣の膝に四角四面において、鼻眼鏡をかけて、シングルの高いカラーに黒ネクタイをつけ、ぴんからきりまでドイツ風だ。フロムゴリド教授は、その上に鼻眼鏡ののっている高い鼻をもち、卵形にぬけ上った額を少し傾けて、
「まだ痛みますか?」
と、伸子の手をとり、脈をかぞえた。その声は権威のある鼻声だった。
「ひどく痛みます」
「お正月に酒をのみましたか?」
「いいえ、一滴も」
「家族の誰か、癌をわずらっていますか」
「いいえ、誰も」
「ハラショー」
フロムゴリド教授は椅子から立ち上って、伸子に、
「じきましになりますよ」
と云い、わきに立っていた助手のボリスにダワイ何とかとロシア語にドイツ語をまぜて指図した。
伸子は、一日に二度湿布をとりかえられ、湯たんぽを二つあてて仰向きにベッドに横たわっている。となりのベッドにいる女は糖尿病患者だった。肉の小さいかたまりが食事に運ばれて来たとき、その女は、ベッドに半分起き上って、皿の上のその肉をフォークでつついてころがしながら、
「肉のこんな切れっぱじ!――どこから滋養をとるんだろう」
憎々しげに云った。それはやっぱり入れ歯をしている声だった。アトクーダ・ウジャーチ・シールィ?(どこから力をとるんだろう)ウジャーチという言葉には奪うという意味がある。どこから力を奪う――生きるために。――そこには憎悪がある。
伸子は、ボリスと二人の看護婦におさえつけられて、ゴム管をのみこまされた。そのゴム管のさきに、穴のある大豆ぐらいの金の玉がついていた。伸子の口から垂れた細いゴム管の先は、ベッドの横の床におかれたジョッキのようなガラスのメートル・グラスの中に垂れている。そのゴム管はゾンデとよばれた。三時間、ゴム管を口からたらしていても、床の上におかれたジョッキには一滴の胆汁もしたたりおちなかった。
伸子ののむ粉薬は白くてベラ・ドンナという名だった。紙袋の上に紫インクでそうかいてある。ベラ・ドンナ。それは美人ということだった。
四五日たつうちに、伸子の体じゅうの痛みがおちついて来た。まず背中がらくになった。それから、鈍痛が右の脇腹だけに範囲をちぢめた。仰向いたまま少し身動きができるようになった。少くとも腕と首だけは苦しさなしにうごかせるようになってきた。そして、伸子に普通の声がもどり、生活に一日の脈絡がよみがえりはじめた。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学附属のその内科病室は、厳冬《マローズ》
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