註文され、秋山と内海が集って来た。
「――どうでした」
伸子や素子の感動している顔を見まわしながら満足そうに秋山が中指にインクのしみのついた小さい両手をすり合わせた。
「|М《ム》・|Х《ハ》・|Т《ト》だけのことはあると思われたでしょう」
伸子と並んで余りかけ心地のよくない堅いバネなしの長椅子にかけ、タバコばかりふかしている素子に、瀬川がきいた。
「吉見さん、感想はどうです」
「ふーむ」
素子は、美しい顔色をして、自分に腹を立てているように、ぶっきら棒に云った。
「わたしは、大体、ここでは、いきなり何にでも感服しないことにしたんです」
「なるほどね――ところで、今夜の|М《ム》・|Х《ハ》・|Т《ト》はどうです――やっぱり感心しないことにしておきますか」
「それが困るのさ!」
素子は、同じようにむかっ腹を立てているような口調で云った。
「くやしいけれど、嘘はつけませんからね」
「じゃ、感服したんじゃないですか」
瀬川と秋山は、ひどく愉快そうに笑った。内海は、そういう素子の感情表現に不賛成らしく、十九世紀のロシア大学生のような頭を、だまって振った。
「もしかしたら芝居だけが面白いんじゃないのかもしれないわ。見物と舞台と、あんなにいきがあうんですもの――独特ねえ……何て独特なんでしょう!」
「佐々さんは、そう思いましたか」
秋山が目を輝かした。
「私も同感です。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の見物ぐらい熱心で素直な観衆はありませんよ。子供のように、彼等は舞台を一緒に生き、経験するんです。ところが佐内君はね、今度モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来て、失望したといっていましたよ。|М《ム》・|Х《ハ》・|Т《ト》の観客がすっかりかわって、服装はまちまちだし、態度もがさつだって――」
「じゃ、佐内さんは、タクシードでも着ていらしたの?」
「そうじゃありませんでしたがね」
「見物のたちは、服装の問題じゃありませんよ」
専門のロシア語のほか、伝来の家の芸で笛の名手である瀬川は、自分の舞台経験から云った。
「舞台に、しらずしらず活を入れて来るような観客がいい見物というもんですよ」
「時代の推移というか、年齢の推移というか、考えると一種の感慨がありますね。佐内君が左団次と自由劇場をやったのが一九〇九年。まだ二十五六で、私と少ししかちがわなかったんですが、第一回の公演のとき、舞台から挨拶をしましてね、三階の客を尊重するような意味のことを云ったんです。――三階の客と云ったって、今から思えば小市民層で、主に学生だったんですがね。すると、それが自然主義作家たちからえらく批判されましてね、きざだと云われたんです」
瀬川が、
「そう云えば、このあいだ芸術座の事務所でスタニスラフスキーと会ったとき、佐内さんの話しかたは、幾分にげていましたね」
と云った。
「佐内君は、芸術座の技術の点だけをほめていたですね」
素子は、注意して話に耳を傾けていたが、また一本、吸口の長いロシアタバコに新しく火をつけながら、きいた。
「スタニスラフスキーって、どんな人です?」
「なかなか立派ですよ。もっとも、もうすっかり白髪になっていますがね」
「ともかく、|М《ム》・|Х《ハ》・|Т《ト》が、こんど『装甲列車』を上演目録にとり入れたことは、画期的意味がありますよ、何しろ、がんこに『桜の園』や『どん底』をまもって来たんだから」
瀬川が、白髪のスタニスラフスキーのもっている落付いた前進性を評価するように云った。
「そうですよ、私もその点で、彼に敬意を感じるんです。『桜の園』にしろ『どん底』にしろ演出方法は段々変化して、チェホフ時代のリアリズムに止ってはいませんがね。『装甲列車』を、あれだけリアルに、しかも、あれだけ研究しつくして、はっきり弁証法的演出方法で仕上げたのはすばらしいですよ。おそらくこのシーズンの典型じゃないですか」
話をききながら伸子は眼をしばたたいた。演出の弁証法的方法というのは、どういうことなのだろう。伸子がよんだ只一冊の史的唯物論には、哲学に関係する表現としてその言葉がつかわれていたが。
素子が、淡泊に、
「リアリズムと、どうちがうんです?」
と秋山に向って質問した。秋山は、すこし照れて、手をもみ合わせながら、
「要するにプロレタリア・リアリズムを一歩押しすすめたもんじゃないですか」
と説明した。
「同じ階級的立場に立っても平板なリアリズムで片っぱしから現象を描いて行くんではなくって、階級の必然に向って摩擦しながらも積極的に発展的に動いてゆく、その動きの姿と方向で描こうというんではないですか」
しばらく沈黙して考えこんでいた素子は、
「そういうもんかな」
疑わしそうにつぶやいた。
「たとえば今夜の『装甲列車』
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