ですがね。ああいうのが、自然だし、また現実でしょう? パルチザンの指導者が、農民自身の中から出て来るいきさつっていうものは――天下りの指揮者がないときに――だから、リアリズムがとことん[#「とことん」に傍点]まで徹底すれば、おのずから、あすこへ行く筈じゃないんですか。どだい、些末主義なんか、リアリズムじゃありませんよ」
 秋山宇一は、質問者に応答しつけて来たもの馴れたこつ[#「こつ」に傍点]で、
「今日のソヴェトでは、一つの推進的標語として、弁証法的方法、ということが云われていると理解していいんでしょうね」
 それ以上の討論を、すらりとさけながら云った。
「大局では、もちろん、リアリズムを発展的に具体化しようとしているにほかならないでしょうがね」
 厚い八角のガラスコップについだ濃い茶を美味そうにのみながら、瀬川が意外そうに、
「吉見さん、あなた、なかなか論客なんですね」
と、髭をうごかして云った。
「わたしは、これまで、佐々さんの方が、議論ずきなのかと思っていましたよ」
 素子と伸子とは思わず顔を見合わせた。瀬川の着眼を肯定しなければならないように現れている自分を、素子は、自分であきれたように、
「ほんとうだ」
とつぶやいた。そして、すこし顔を赧《あか》らめた。
「ぶこちゃん、どうしたのさ」
「わたし?」
 伸子は、何と説明したらこの気持がわかって貰えるかと、困ったようにほほ笑んだ。
「――つまり、こうなのよ」
 その返事をきいてみんな陽気に笑った。素子が議論していることや、秋山の答えぶりの要領よさについて、伸子は決して無関心なのではなかった。むしろ、鋭く注意してきいていた。けれども、劇場でうけてきた深い感覚的な印象のなかから、素子のようにぬけ出すことが伸子の気質にとっては不可能だった。伸子の感覚のなかには、云ってみれば今朝から観たこと、感じたことがいっぱいになっていて、粉雪の降るモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の街の風景さえ、朝の雪、さては夜の芝居がえりの雪景色と、景色そのまま、まざまざと感覚されているのだった。伸子は、|М《ム》・|Х《ハ》・|Т《ト》の演出方法の詮索よりも、その成功した効果でひきおこされた人間的感動に一人の見物としてより深くつつまれているのだった。
 一座の話が自然とだえた。そのとき、どこか遠くから、かすかに音楽らしいものがきこえて来た。
「あれは、なに?」
 若い動物がぴくりとしたように伸子が耳をたてた。
「マルセイエーズじゃない?」
 粉雪の夜をとおして、どこからかゆっくり、かすかに、メロディーが響いてくる。
「ね、あれ、なんでしょう?」
 秋山が、一寸耳をすませ、
「ああ、クレムリンの時計台のインターナショナルですよ」
と云った。
「十二時ですね」
 きいているとやがて、重く、澄んだ音色で、はっきり一から十二まで時を打つ音がきこえて来た。金属的に澄んで無心なその響は、その無心さできいているものを動かすものがあった。
「さあ、とうとう明日《あした》になりましたよ、そろそろひき上げましょうか」
 みんないなくなってから、伸子は、カーテンをもち上げて、その朝したように、またそとをみおろした。向い側の普請場を、どこからかさすアーク燈が煌々《こうこう》とてらし、粉雪のふる深夜の通りを照している。銃を皮紐で肩に吊った歩哨が、短い距離のところを、行って、また戻って、往復している。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は眠らない。伸子はそう感じながら長い間、アーク燈にてらし出されて粉雪のふっている深夜の街を見ていた。

        二

 一九二七年の秋、ソヴェト同盟の革命十周年記念のために文化上の国賓として世界各国からモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ招待された人々は、凡《およ》そ二十数名あった。そのなかには、第一次ヨーロッパ大戦のあと「砲火」という、戦争の残虐にたいする抗議の小説をかき、新しい社会と文学への運動の先頭に立っていたフランスのアンリ・バルビュスなどの名も見えた。日本から出席した新劇の佐内満その他の人々は、祝祭の行事が終った十一月いっぱいでモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を去り、佐内満は、ベルリンへ立った。伸子たちがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へついた十二月の十日すぎには、祭典の客たちの一応の移動が終ったところだった。外の国の誰々が、この行事の終ったあともなおモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にのこったのか、伸子たちは知らなかったが、ともかく秋山宇一と内海厚は、なお数ヵ月滞在の計画で、瀬川雅夫は年末に日本へ立つまで、いのこった。これらの人々が、ボリシャアヤ・モスコウスカヤというホテルから、パッサージ・ホテルへ移っていた。秋山宇一
前へ 次へ
全437ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング