の主役というものが、どうやって現実のたたかいの間から自然に生れ出て来るかということを物語り、描き示していた。
 瀬川が、熱心に舞台を見ながら、棧敷の前列にいる伸子たちにささやいた。
「御覧なさい――カチャーロフのエルシーニンは、この場面で、はじめてやや目立って来たでしょう」
 観客たちは、ほんとに自分たちのために芝居をして貰って、それを観ているといううちこみかただった。伸子たちのいる棧敷から一段低い平土間席から二階のバルコンの奥まで、見物はぎっしりつまっていた。子供は見あたらないが、あらゆる服装、あらゆる顔立ちの老若男女が、薄明りのさす座席から身じろぎもしないで数千の瞳を舞台に集注しているのだった。この劇場の中で観客はどっちかというと遠慮ぶかく、つつましい感じに支配されているらしいのに、或るところへ来ると、猛烈な拍手が湧きたって場内をゆすぶった。どうみても、それはカチャーロフの芸達者に向ってだけ与えられる賞讚ではなかった。そのとき観客はパルチザンの判断と行動とに同感するのだ。
 |М《ム》・|Х《ハ》・|Т《ト》の由緒ふかいリアリズムの舞台と観客席とを、こんな情熱でつないでいる新しい情景に伸子は感動した。ロシアがソヴェトになってから、芝居も小説も、それまでとすっかりちがったものになったということが実感された。場内をうずめている観客のなかには、一九一七年から二〇年までの間に、実際このパルチザン・エルシーニンの物語のある部分をその身で経験した男たちがどの位いることだろう。革命のためにたたかったすべてのことの成りゆきは、舞台に殆どそっくりだが、最後に命を全うして、今夜この劇場に坐り、それを観ているところだけは違うという男たちもあるにちがいない。よしんばそれぞれ部署がちがい、したがって経験の内容に多少の相異はあったにしろ、一九一七年という年、その十月という月に、勇気と恐怖と、涙と歓喜の高波をくぐったすべての男、そして当然女も、みんな少くとも一篇だけは、自分たちの物語をもっているにちがいない。『装甲列車』は、これらの人々の、人生に深く刻みつけられている「その人たちの物語」に向って語りかけているのではないだろうか。|М《ム》・|Х《ハ》・|Т《ト》の俳優たちは、こんなに見事に『装甲列車』を演じて、観客たちを満足させているだけではなく、観客の非常に大部分の人たちに、かれらの奮闘の日を思いおこさせ、新しい歴史にとって自分も無駄に生きたものではなかった誇りと、なお彼に期待されている力量の可能を自覚させているのではないだろうか。『装甲列車』は舞台と観客をひっくるめてうちふるわす不思議な震撼のうちに、英雄的な悲劇の幕をとじた。
 十一時すぎのトゥウェルスカヤ通りには、宵のうちよりも結晶のこまかい粉雪が降りつづけている。劇場のはね[#「はね」に傍点]るのを目あてにして来てあぶれた辻待橇が一台、のろのろ、伸子たちの歩いて来る方向について来た。伸子は、足もとのあぶなっかしさよりも、寧《むし》ろはげしくゆり動かされている心の支えが欲しい心持から、茶色外套をきている素子の腕にすがった。
「そんなに寒いの?」
 ぴったりよりそって歩いている伸子の体のかすかな顫《ふる》えに気がついて、素子が不安そうに訊いた。
「そうじゃないのよ、大丈夫!」
 上気している頬に粉雪を快く感じながら、何となく顫えの止らないような芝居がえりのこの心持――伸子は、十六七のとき、上目黒のある富豪のもっている小劇場で、はじめてストリンドベリーの『伯爵令嬢ユリー』を観た晩のことを思い出した。それは、伸子がみた最初の新劇だった。伯爵令嬢ユリーの恋は、なんと病的で奇異だったろう。鞭が、何とぞっとする音で鳴ったことだろう。しかし、伸子は何とも云えないその芝居全体の空気から亢奮して、うちまでかえる俥《くるま》の中で顫えた。木立のなかに丸木小舎めかして建てられていたその小劇場。喫煙室に色ガラスのはまった異国風なランターンがつり下げられていた。そこに立ったり腰かけたり、密集してタバコをのんだり、談笑したりしている大学生や文学、演劇関係の人々。芝居そのものが若い女になりかかっている伸子を感動させたばかりでなく、その小劇場の観客たちの雰囲気が、伸子に、からだの顫えをとめられないような歓喜と好奇とを与えた。二十九歳の伸子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の十二月の夜の粉雪の街をホテルに向って歩きながら、そのときに似た感銘で、顫えた。その感情は新鮮で、皮膚が痛むように感覚的で、同時に人生的だった。発光体のようになった小さい円い顔に、伸子は、うっとりと思いこんだ表情をたたえながら、我知らずホテルの室のなかまで素子の腕につかまって来てしまった。
 今夜は伸子たちの室で、お茶にすることになった。茶道具が
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