が出たときも秋山は同じような態度をくりかえした。瀬川が話しはじめて、瀬川が切符をくれて、一緒に行くときまって、秋山宇一は|М《ム》・|Х《ハ》・|Т《ト》のすばらしさを力説した。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]芸術座は、瀬川が云ったとおり、ほんとにホテルから、じきだった。トゥウェルスカヤの大通りを、赤い広場と反対の左の方へ少しのぼって、ひろい十字路を右へ入ると、いくらも行かないうちに、せまい歩道の上に反射光線をうけて硝子|庇《ひさし》がはり出されているのが見え、雪の夜の暗い通りのそこ一点だけ陽気な明るさに溢れていた。うしろから来て伸子たちを追いぬきながら、一層元気に談笑して足を早めてゆく人々。あっち側から来て劇場へ入ろうとしている人々。劇場の前だけに溢れている明るさは、ひっきりなし降る雪片を白く見せ、そのなかを、絶えず黒い人影が動いた。それらの黒い影絵の人々がいよいよ表扉を押して劇場へ入ろうとする瞬間、パッと半身が強い照明を浴びた。そして、鞣《かわ》外套の茶色っぽい艷だの、女がかぶっているクリーム色のショールの上の赤や黒のバラの花模様を浮立たせている。
 その人群れにまじって伸子たちも防寒靴をあずけた。それから別のところにある外套あずかり所へ行って、帽子や外套をあずけた。伸子の前後左右には派手な花模様や、こまかい更紗《さらさ》、さもなければごくありふれた茶や鼠の毛織ショールなどをかぶって来た女たちが、それぞれに、そのショールをぬいでいた。ショールがぬがれると、その中からあらゆる種類のロシアの女の顔があらわれた。深い皺や、活々した皮膚や、世帯やつれのひそんだ中年の主婦の眼つきをもって。つづいて、曖昧な色あいのぼってりした綿入防寒外套がいかにもむくという感じで脱がれた。その中から女の体があらわれた時、急にしなやかであったかい一人の女がそこにむき出された新鮮な刺戟があった。
 瀬川の切符は、舞台に向って右側の中ほどにある棧敷《さじき》席だった。
「えらく晴れがましい場所なんですね」
 ひる間と同じ、きなこ色のスーツを着て来ている素子が、伸子と並んで最前列の椅子にかけながらうしろの瀬川に云った。
「|ВОКС《ヴオクス》でくれる切符は、どこの劇場のでも、大抵、棧敷席のようですよ」
「そりゃ、あなたがたは国賓だもの」
「ちょっと!」
 それを遮って肩にビーズの飾止めのついた絹服を着た伸子が素子の手の上に自分の手を重ねて押しつけながら、注意をもとめた。
「チャイカ(かもめ)がついている!」
「どれ?」
 伸子は身ぶりで舞台を示した。開幕前のひろい舞台にはどっしりと灰色っぽい幕がおりていた。その幕の左右からうち合わせになっている中央のところに、翼をはって空と水との間を翔《と》んでいるかもめ[#「かもめ」に傍点]が落付いた色調の組紐|刺繍《ししゅう》で装飾されているのだった。
「入口のドアにもついていたでしょう――気がついた?」
 地味な幕の中央に、かどを落した横長の四角にかこまれて、それだけがただ一つの装飾となっている鴎は、片はじをもぎとられて伸子のハンド・バッグに入っている水色の切符の左肩にも刷られていたし、棧敷席のビロードばりの手すりの上においてあるプログラムの表紙にもついている。芸術座は、チェホフの『鴎』で、現代劇の歴史にとって意味ふかい出発をした。その初演の稽古のときは、まだこの劇場が落成していなかったので、俳優たちはどこかの物置のような寒い寒い建物のなかで、ローソクの光をたよりに稽古した。それでも、あらゆる俳優が自分たちこそ本当の新しい芝居をするのだという希望と誇りに燃えていて、寒いことも苦にしませんでした。そうかいていたのはチェホフの妻であったオリガ・クニッペルだった。「チャイカ」は|М《ム》・|Х《ハ》・|Т《ト》の芸術的生命と切ってもきりはなせない旗じるしであった。
 こんなに科白《せりふ》のわからない芝居が、こんなに面白いという事実に伸子はびっくりした。『装甲列車』は伸子が前に読んでいたためにわかりよかったばかりでなく、練習をつみ、統一され、一人一人がちゃんとした俳優である芸術座の俳優たちは、実に演劇的な効果をもって一幕一幕とこの革命当時、国内戦にたたかった農民パルチザンの英雄的行動を描き出して行った。カチャーロフが扮した主人公エルシーニンが、第一幕では、全く農民の群集のうちにまぎれこんでいて、どこにいるかさえわからない存在であったのが、幕の進むにつれ、その地方の農民の革命的な抗争が緊迫するにつれ、彼のほんの小さい一つの行動、わずかの積極性の堆積から、次第に、そのパルチザン集団の指導者として成長して来る。『装甲列車』は、はじめっから一定の役割を負わされた劇の主人公というものはない芝居だった。一定の事件や行動
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