謔、に伸子はアストージェンカへの道を行った。
ソヴェトの人たちが、ゴーリキイを我らの作家として認めている。それにはどんなに深く根ざした必然があるだろう。歩きながらも伸子はそのことを思わずにいられなかった。
ソヴェトに子供の家のあること、児童図書館のあること。働く青年男女のために大学が開放されていること。ソヴェトの民衆は自分たちの努力と犠牲とでそういう社会を組み立てはじめたことについて誇りとよろこびとを感じている。少年時代のゴーリキイの日々は、ソヴェトの表現でベスプリゾールヌイ(保護者なき子)と云われる浮浪の子供たちの生活だった。ヴォルガ通いの汽船の料理番から本をよむことを習って大きくなったゴーリキイは、ソヴェトに出来はじめている児童図書館の事業を自分のやきつくような思い出とともに見守っているのだ。そしてすべての働く若もののために大学があることを。「私の大学」でない大学がソヴェトに出来たことを。
ゴーリキイは、生きるために、そして人間であるためにたたかわなければならなかった。ロシアの人民みんながそのたたかいを経なければならなかったとおり。そしてゴーリキイの物語は、どれもみんなその人々の悲しみと善意ともがきの物語りである。これらの人々が自分たちの人生を変革し、人間らしく生きようと決心して、忍耐づよくつづけた闘争の過程で、ゴーリキイはペテロパウロフスクの要塞にいれられたし、イタリーへ亡命もしなければならなかった。ゴーリキイの人生はそっくり、正直で骨身惜しまず、人間のよりよい生活のために尽力したすべてのロシアの人々の歴史だった。
伸子は、まだ冬だった頃、メトロポリタンのがらんとした室で中国の女博士のリンに会った帰り途、自分に向って感じた問いをゴーリキイ展からの帰り途ひときわ深く自分に向って感じた。伸子の主観ではいつも人生を大切に思って来たし、人々の運命について無関心でなかった。女として人として。だけれども、伸子は、誰とともに生き、誰のための作家なのだろう。伸子はどういう人達にとっていなくてはならない作家だと云えるだろう。
伸子は、アストージェンカの角を横切りながら再び肩をちぢめるような思いで、写真について生意気に云った自分を思いかえした。伸子が、ひとなら、あのひとことで佐々伸子を憎悪したと思う。ああいう心持は、ソヴェトの人たちの現実にふれ合った心でもなければ、日本のおとなしく地味な人たちの素直な心に通じた心でもない。その刹那伸子は、また一つの写真を思い出した。ニキーチナ夫人ととった写真だった。その写真で伸子は真面目に自分の表情でレンズの方を見ながら、手ばかりは写真師に云われたとおり、一方の手を真珠の小さいネックレースに一寸かけ、一方の腕はニキーチナ夫人の肩のところから見える長椅子の背にかけて、両方の手がすっかりうつるようなポーズでとられているのを思い出した。その髯の濃い写真師は、伸子の手がふっくりしていて美しいと云い、ぜひそれを写したいと、伸子にそういうポーズをさせたのだった。ドイツ風というか、ソヴェト風というのか、濃く重い効果で仕上げられたその写真をみたとき、伸子は、ちらりときまりわるかった。幾分てれて、伸子はその写真をとどけて来てくれた内海厚に、
「みんな気取ってしまったわねえ」
と笑った。そこにうつっている秋山宇一も内海厚も素子も、みんなそれぞれに気取って、写真師に云われたとおりになっていることは事実だった。けれども、伸子のポーズでは、伸子の額のひろい顔だちの東洋風な重さや、内面から反映している圧力感とくらべて、平俗なおしゃれな手の置きかたの、不調和が目立った。手が美しいと写真師がほめたとき、伸子は、それが伸子の生活のどういうことを暗示するかまるで考えなかった。しかも、その手の美しさが、何かを創り何かを生んでいる手の節の高さや力づよさからではなく、ただふっくりとしていて滑らかだという標準から云われているとき。――
伸子には、ポリニャークが自分を掬い上げたことや、それに関連して自分が考えたあれこれのことが、写真のことをきっかけとしてちがった光で思いかえされた。これまで、伸子は自分が中流的な社会層の生れの女であることについて、決してそれをただ気のひけることと思わないで来た。気のひけるいわれはないことと考えて来た。そして、ポリニャークやケンペルが、プロレタリアートにこびることに反撥した。駒沢に暮していた時分「リャク」の若いアナーキストたちが来たときも、伸子は、そういう心の据えかたをかえなかった。
それはそれとして間違っていなかったにしろ、いつとしらず自分の身についている上すべりした浅はかさのようなものは、伸子自身の趣味にさえもあわなかった。
伸子は、そういうことを考えながら、並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−
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