W2]ール》の入口近くにある食料販売所へ入って行った。プロスト・クワシャの二つのコップとパンを買った。勘定場で金を支払い、計算機がガチャンと鳴って、つり銭の出されたのをうけとりながら、伸子は、自分が自分のそとに見えるすべての小市民的なこのみをきらいながら、同じそういうものが自分の内にあって、自分の知らないうち発露することについて、苦しむことを知らなかったことに心づくのであった。
 伸子は、住居のコンクリートの段々を、のぼりながら、しつこく自分をいためつけるように思いつづけた。こうしてソヴェトへ来るときにしろ、伸子は自分のまともに生きたいと思っている心持ばかりを自分に向って押し立てて来た。本当の本当のところはどうだったのだろう? 伸子が誰にとってもいなくてはならない人でなかったからこそ、来てしまえたのだと云えそうにも思えた。伸子は誰の妻でもなかった。どの子の母親でもなかった。女で文学の仕事をするという意味では、伸子の生れた階層の常識にとってさえ、伸子はいてもいなくてもいい存在だったかもしれない。そして、伸子の側からは絶えずある関心を惹かれているソヴェトの毎日にとっても、また故国で伸子とはちがった労働の生活をしているどっさりの人々にとっても。――伸子は、その人々の苦闘ともがきの中にいなかったし、この社会に存在の場所を与えられずに生きつづけて来た者の一人ではない。その人たちの作家というには遠いものだったのだ。食事のために素子と会う約束の時間が来るまで、伸子はアストージェンカの室のディヴァンの上へよこになって考えこんでいた。

 作家生活の三十年を記念するマクシム・ゴーリキイ展は日がたつにつれ、全市的な催しになった。五月中旬には、五年ぶりでゴーリキイがソヴェトへ帰って来るという予告が出て、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では工場のクラブ図書室から本屋の店にまで、「マクシム・ゴーリキイの隅」がこしらえられた。伸子たちがもと住んでいたトゥウェルスカヤ通りの中央出版所のがらんとした飾窓にも、人体の内臓模型の上にゴーリキイの大きい肖像画がかかげられた。

        四

 そういう四月はじめの或る晩のことだった。
 伸子はアストージェンカの室の窓ぎわで、宵の街路を見おろしていた。そして街の騒音に耳を傾けていた。その日の昼ごろ、伸子が外出していた間に、伸子たちの室も窓の目貼りがとられた。帰って来てちっとも知らずにドアをあけた伸子は、室へふみこんだとき彼女に向ってなだれかかって来た騒音にびっくりした。雪のある間は静かすぎて寂寥さえ感じられた周囲だのに、窓の目ばりがとれたら、アストージェンカのその小さな室はまるでサウンド・ボックスの中にいるようになった。建物のすぐ前の小高いところにフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの多角型の大|伽藍《がらん》が大理石ずくめで建っているせいか、すべての音響が拡大されて伸子の室へとびこんで来た。電車は建物の表側のあっちを通って、そんなひどい音を出す交叉点らしいところもないのに、一台ごとにどこかでガッタン、ギーと軋む音を伸子たちの室へつたえた。その最中は話声さえ妨げられた。しかし伸子は春と一緒に騒々しくなった自分たちの室をきらう気にならなかった。見馴れた夜の広場の光景に、今夜から音が添って眺められる。それは、北の国の長い冬ごもりの季節のすぎた新鮮さだった。
 テーブルのところで、昼間買って来た「赤い処女地」を見ながら素子が、
「きょう、ペレウェルゼフが、ゴーリキイについて一時間、特別講演をしたよ」
と言い出した。
「まあ、みんなよろこんだでしょう?」
「ああ随分拍手だった、前ぶれなしだったから……」
 ペレウェルゼフ教授は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学でヨーロッパ文学史の講義をしていた。今学期は、ロマンティシズムの時代の部分で、素子はそれを聴講していた。
 伸子は素子の聴講第一日にくっついて行った。文科だのに段々教室で、一杯つまった男女学生がペレウェルゼフの講義している講壇の端にまであふれて腰かけていた。立って聴いている学生もあった。伸子にはききわけにくいその二時間ぶっとおしの講義が終って四十五分の質問になったとき、そこに風変りの光景がおこった。質問時間には、学生同士が自主的に討論することを許されているらしかった。教授のわきに立って、黒板にもたれるようにしてノートをとっていた数人の学生の中から、学生の質問にじかに解答したり「君の質問は先週の講義の中に話されている」と質問を整理したりした。段々教室の中頃の席に素子と並んでかけて居た伸子は、そのとき、講壇のわきにいる学生の一群の中でも特別よく発言する一人の学生に注意をひかれた。その学生は、ごく明るい金髪の、小柄な青年だった。そばかすのある
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