Q]へ来てニキーチナ夫人と一緒にうつした写真まで、無数と云うぐらいどっさり写真をとられた。それは生後百日記念、佐々伸子、と父の字で裏がきされている赤坊の伸子の第一撮影からはじまった。そこには、ゴム乳首をくわえている幼い総領娘の手をひいた佐々泰造の若いときの姿があり、被布をきた祖母が居り、弟たち、母がいた。ニューヨークで佃と結婚したとき、伸子はその記念のためにとった写真の一つを思い出した。平凡に並んでうつしたほかに、伸子は自分のこのみで、佃と自分の顔をよせ、横から二人の輪廓を記念メダルの構想で写してもらった。佃の彫りの深い横顔を大きくあらわして、その輪廓に添えて、二十一歳の軟かく燃える伸子の顔の線をあらわすようにした。六年たって、佃と離婚したあと、伸子はその写真を見るに堪えなかった。写真がそんなに佃と自分との結合を記念して、消えないのが堪えがたかった。書いた日記を破ったりしたことがないほど生活をいとしむ伸子であったが、そのメダル風の写真は、台紙からはがしてストーヴの火のなかに入れた。伸子は写真ぎらいになっていた。
 十八ぐらいからあと、伸子は、自分が写真にとられなければならなくなる羽目そのものを厭うことから、写真ぎらいになって来た。それは見合い写真をとらされることから、気もちのはっきりした娘たちが屈辱に感じて、いやがるのとはちがった。ゴーリキイが人生にさらされたのと、反対の角度から、伸子は、早く世間にさらし出された。それは、伸子が少女の年で小説をかき出したということが、原因であった。伸子は、新聞や雑誌から来る写真班に、うつしてほしくないときでも写真をとられた。それらの写真は、いつも好奇心と娘について示される多計代の関心に対する皮肉と伸子の将来の発展に対する不信用の暗示をふくんだ文章とともに人目にさらされた。伸子には、それが辛かった。そういう人工的なめぐり合わせをいやがって、普通の女としての生活に身を投げるように佃と結婚したのだったが、そこにもまた写真はつきまとった。伸子が思いがけなく唐突な結婚をしたと云って。身もちになってしまったからそのあと始末に仕方なく佃というアメリカごろつきと夫婦にもなったのだそうだ、という噂などを添えて。
 それらすべては伸子にとって苦しく、伸子の意識を不自然にした。伸子が、母の多計代に対してはたで想像されないほど激越した反撥をもちつづける原因も、伸子のその苦悩を多計代が理解しないことによっている。世間の期待と云えば云えたのかもしれないが、伸子の感じから云えば無責任な要求に、多計代は娘を添わして行きたがった。伸子は、それに抵抗しないわけにゆかなかった。
 目の前に、赤い布で飾られたゴーリキイ展の一つの仕切りを眺めながら、伸子は限りなくくりひろがる自分の思いの裡にいたが、その赤い飾りの布の色は段々伸子の眼の中でぼやけた。あんなに自分の境遇に抵抗して来ているつもりでも、伸子は、やっぱりいやにすべっこくて艷のいいような浅薄さをもっている自分であることを認めずにいられなくなった。いやがる自分をうつそうとする写真を軽蔑しながら、結局伸子はうつされた。写されながらいやがって、写真を金のかかる貴重なものとし、大切にするねうちのあるものとして考える地味な正直な人々、一枚の写真のために自分で働いて稼いだ金のなかから支払わなければならない人々の心と、とおくはなれた。これは、中流的なあさはかさの上に所謂文化ですれた感覚だと伸子は思った。そう思うと展覧会の飾り布の赤い色が一層ぼやけた。すれっからしの自分を自分に認めるのは伸子にとって切なかった。
 伸子は、どこかしょんぼりとした恰好で、中央美術館のルネッサンス式の正面石段を一歩一歩おりて、通りへ出た。雪どけが終って、八分どおり道路が乾いたらモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は急に喧しいところになった。電車の響、磨滅して丸いようになった角石でしきつめられている車道の上を、頻繁に荷馬車や辻馬車が堅い車輪を鳴らし、蹄鉄としき石との間から小さい火花を散らしながら通行する物音。伸子が来たころモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は雪に物音の消されている白いモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]だった。それから町じゅうに雪どけ水のせせらぎが流れ、日光が躍り雨樋がむせび、陽気ではね[#「はね」に傍点]だらけでモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]は音楽的だった。こうして、道が乾くと乾燥しはじめた春の大気のなかでは、電車の音響、人声、すべてが灰色だの古びた桃色だの剥《は》げかかった黄色だのの建物の外壁にぶつかって反響した。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来て半年たったきょう伸子の心の中でも下地がむき出しにあらわされた。歩くに辛いその心の上を歩いてゆく
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