^ガンローグというアゾフ海の近くのどこかの町で屋台《キオスク》商人として生活していた。と読んだことが思い出された。そうだとすれば、チェホフも、少年の頃ちょいちょい写真をとってもらったりするような生活の雰囲気はもっていなかったのだ。
 それらのことに気がつくと、伸子はひとりでに腋《わき》の下がじっとりするような思いになった。
 雪どけが終って春の光が溢れるようになると、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》やモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学の構内で、ときには繁華な通りでビルディングを背景に入れたりして、おたがいに写真をうつし合っているソヴェトの若い人たちを、どっさり見かけるようになった。つい二三日前、伸子と素子とがブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ールを散歩しているときだった。そこの菩提樹の下に古風な背景画を立て、三脚を立てた写真師が日本でなら日光や鎌倉などでやっているように店をはっていた。五十カペイキでうつすと書いた札が菩提樹の幹にはってあった。伸子たちが通りかかったとき丁度一人の若い断髪の女が、生真面目にレンズを見つめて、シャッターが切られようとしているところであった。その肥った娘の赭ら顔の上にあるひなびたよろこびや緊張を伸子は同感して見物した。ソヴェトらしい素朴な並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》風景と思ってみた。けれども、同時に伸子は素子にこんなことを云った。
「こういうところをみるとロシアって、やっぱりヨーロッパでは田舎なのねえ」
 そして、連想のままに、
「ヨーロッパで、日本人を見わける法ってのがあるんだって。――知っている?」
「知らないよ」
「黄色くって、眼鏡をかけて、立派な写真器をもって歩いているのは日本人てきまっているんだって」
「なるほどねえ」
 展覧会場の長椅子の上で、伸子が思い出したのは、この自分の会話だった。ゴーリキイの幼年時代や青年の頃一枚の写真さえもっていなかったということ。そしてあんなにゴーリキイが愛して、命の糧のようにさえ思っていた話し上手のお祖母さんの写真さえ、ただ一枚スナップものこされていないという現実は、伸子に自分のお喋りの軽薄さを苦々しくかえりみさせた。ロシアの貧しかった人々の痛ましい生活の荒々しさ。無視された存在。現在ソヴェトの若い人たちが、あんなに嬉々として春の光を追っかけて互に写真をとりあっていることは、決してただ田舎っぽいもの珍しさだけではなかった。
 伸子は、あんな小憎らしい日本の言葉が、まわりの人たちにわからなかったことをすまなくも、またたすかったとも思った。
 これまでの社会で写真というものは、ただそれを写すとか写さないとかいうだけのものではなかったのだ。伸子ははじめて、その事実を知った。写真をうつすということが、金のかかることである時代、何かというと写真をうつす人々は、それだけ金があり自分たちを記念したり残したりする方法を知っている人たちであり、写真を眺めて、その愉快や愛を反復して永く存在させる手段をもった人々であった。写真というものがロシアのあの時代に、そういう性質のものでなかったのなら、ゴーリキイのロマンティックで野生な人間性のむき出された少年時代のスナップが、誰かによって撮られなかったということはなかったろう。チェホフの子供時代にしろ、小父さんのとった一二枚の写真はあり得ただろう。
 ソヴェトの若い人たちが、写真器をほしがり、一枚でも自分たちの写真をほしがっているのは、伸子が浅はかに思ったような田舎っぽい物珍しがりではなかった。金もちや権力からその存在を無視され、自分からも自分の存在について全く受け身でなげやりだった昔のロシアの貧しい人民《ナロード》は、自分の生活を写してとっておく意味も興味も、思いつきさえも持っていなかったのだろう。写真なんかというものは金のある連中のたのしみごととして。ソヴェト生活のきょう、その人民が写真ずきだということは、その人たちにとって生存のよろこびがあり、日々の活動の場面が多様で変化にとんで居り、生き甲斐を感じているからこそにちがいなかった。写真がすきということのかげに、幾百千万の存在が、めいめいの存在意義を自覚して生きて居り、同時に社会がそれを承認しているということを語っていると思われるのだった。
 こういう点にふれて来ると、伸子は、自分がどんなに写真というものについてひねくれた感情をもっているかと思わずにいられなかった。そして、ヨーロッパ見物の日本人について云われる皮肉と、ソヴェトの写真ばやりとを、同じ田舎くささのように思ったひとりよがりにも、胸をつかれた。
 伸子は、子供のときから、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−8
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